エピローグ 石油王の回顧
ニューヨーク州ウェストチェスター郡、ハドソン川を見下ろす丘に建つ広大な邸宅「キカイト」。
一九一九年八月、ジョン・D・ロックフェラーは、この静謐な書斎で一通の電報を受け取り、長年の好敵手であったアンドリュー・カーネギーの訃報を知った。
そのとき、ロックフェラーは八十歳。
すでにビジネスの第一線を退き、世俗の喧騒から離れた隠居生活を送っていた彼だったが、その報せは、老兵の胸に去来する数々の記憶を呼び覚ますに十分だった。
「……あんなに面白い男は、もう二度と現れないだろうな」
ぽつりと漏らした言葉と共に、脳裏に浮かんだのは、あの不敵で、どこか悪戯っぽいアンドリューの笑みだった。
思えば、あいつには散々振り回された人生だった。
決定的な転機は、アンドリューが記した一冊の論文『富の福音』だった。
「富を抱えたまま死ぬのは、恥辱である」
その一文は、当時のアメリカ社会にとって、そしてロックフェラーにとって、あまりに巨大なパラダイムシフトであった。
カーネギーが「富を蓄えることは罪である」という倫理観を全米に広めたことで、ロックフェラーは否応なしに寄付をせざるを得ない状況へと追い込まれたのだ。
「まったく、迷惑な話だ」
口ではそう言いながらも、ロックフェラーの心は別のことを感じていた。自分の中にあった「何か」の背中を、彼が強く、強引に押してくれたのだという、深い感謝である。
ロックフェラーの還元は、個人としての教会への寄付から始まり、やがてシカゴ大学の創設支援、医学研究や教育への巨額投資へと繋がっていく。組織化を極めた彼は、最終的に「ロックフェラー財団」を設立した。
かつては血で血を洗う「独占」のために戦った二人の怪物が、人生の最終盤において、どちらがより多くを世界に返せるかという「還元」の競争に興じていたのである。
◇
アンドリューの悲報を知ったその日、ロックフェラーはすぐに筆を執った。遺されたルイーズ夫人へ、悔やみの手紙をしたためるためだ。
ペンを走らせながら、ふと、懐かしい光景が蘇る。
引退後のアンドリューは、まるで子供のように頻繁に手紙を送りつけてきた。
「ジョン、私は今月これだけ寄付したよ。君はどうだい?」
それは明らかな挑発であり、同時に、同じ孤独な高みに辿り着いた者同士にしか分からない、切実な連帯感の確認でもあった。
ある年のクリスマスの悪戯も忘れられない。
ロックフェラーは、当時アンドリューが心酔していた「禁酒運動」を皮肉り、最高級のウイスキーを一箱贈った。するとアンドリューは、ロックフェラーが提唱していた「質素な生活」を揶揄するように、特注の巨大なスコットランド製チーズを送りつけてきた。
思い出すだけで、ロックフェラーの厳格な頬がわずかに緩んだ。
沈黙を好み、私生活を隠す自分に対し、社交的で饒舌、自らの功績を誇るのが大好きなアンドリュー。正反対だからこそ、二人は誰よりも深く理解し合えたのかもしれない。
◇
ロックフェラーはその後、カーネギーの享年を超える九十七歳まで生きた。
彼がその後の人生において、さらに苛烈なまでに慈善事業をシステム化し、カーネギーをも上回る額の富を社会へ還し続けたのは、亡き友との「最後の競走」を、あの日からずっと一人で続けていたからなのかもしれない。
(完)




