ヘーゼルナッツパンケーキ
レウケー氏は裁判を起こすのをやめたらしい。
「全て世は事も無し、だ。いい仕事をしてくれた」
憧れの上司から褒められて、ロザリンドは天にも昇る心地になった。
先日オクタヴィアさんの家を訪問したルキウス・セーレ君は、お父上のレウケー氏に気に入られたらしい。大学の政治学部に通う傍ら、レウケー氏の事務所に秘書として勤めることになったとか。このまま後継者として議員として立候補するのかもしれない。
ただ気になるのは、ニムエのことだった。
昔、彼女の悲惨な失恋の話について聞いたことがある。
憧れの少年を自宅に招き、ヘーゼルナッツ入りのクッキーをご馳走した。ところが彼はヘーゼルナッツのアレルギーを持っていたため、急に倒れてしまったので、救急車を呼ぶ騒ぎになったとか。
もしかして、セーレ君のことだったのかしら。
10月になって、ニムエから誘いのメールがあった。
次の週末、ヘーゼルナッツを食べに来ない?煎りたては最高なのよ。ついでにパンケーキも作りましょうよ。
約束の日、ロザリンドはニムエの家に向かった。
このあたりは高級住宅街で、目抜き通りに「ヘーゼルアベニュー」と名前が付いているが、その由来は、フルーレティ家のヘーゼルナッツから来ているらしい。広壮な屋敷はこのあたりの目印になっている。
「お嬢様はお庭ですよ。後でシーリアさんもお見えになるそうです」
メイドさんに案内されてロザリンドは庭に向かった。
広い庭の一角、ヘーゼルナッツの木の近くに小さなテントが立てられていた。
その傍らで、ニムエは簡易かまどの前に座り、大量のヘーゼルナッツの殻を割っていた。
「あら、いらっしゃい」
「何だか、キャンプみたいね」
「ええ。テントの中にマグカップがあるから、好きなの使っていいわよ。ティーパックかコーヒーか選んでね」
テントの中には、ポットのほか、ボウルや泡立て器、小麦粉、卵なんかが几帳面に並べて準備されていた。
ロザリンドは紅茶を淹れると、ニムエの隣に座って、ヘーゼルナッツの殻を割るのを手伝った。
「考え事をするときって、こういう単純作業がいいわよね」
そういえば、ニムエが修士学位論文のアイデアを閃いたのは、ヘーゼルナッツの殻をひたすら割り続けて居たときだったという。この季節だ。
しばらく、黙っていたニムエが、ふと言った。
「私の初恋の話はしたことあったっけ」
「大好きな人がヘーゼルナッツのアレルギーで、庭で倒れて救急車を呼んだとか」
「ええ。その彼にね、先週の試食会で偶然再会したの。そして二度目の失恋をしちゃった」
ニムエは、ざっと音を立てて、むき終えたヘーゼルナッツをフライパンに入れ、かまどに火を起こした。
「分かっているの。彼が私を選ぶわけがないって。
彼はヘーゼルナッツ食べられないのに、私は大好物なんだもの。
本当に、彼が好きだったら、家族の反対なんか押し切って、ヘーゼルナッツの木を切り倒しているわ。そして、一生ヘーゼルナッツを食べないと誓ったはずよ。でも、私はそうしなかった。彼よりヘーゼルナッツを選んだんだわ。友達でいられるだけでよしとしなくちゃ」
ニムエは早口で言ったあと、ぽつんと付け加えた。
「でも、辛いの」
ニムエは乱暴に顔をこすった。煙のせいだと言いたげに。
「同じ人に二回も失恋したわ。この間のパーティで、彼ったら初恋の人とそっくりな人とご飯食べていたわ。小学校の時の音楽の先生とそっくり」
ニムエは小さくため息をついた。そしてフライパンをゆすってナッツを煎り始めた。
ロザリンドはしばらくかまどの火を見つめていたが、やがて言った。
「縁がなかったのよ。それに、好きなものを我慢しなきゃいけない人と一緒にいるって、辛いんじゃないかな。
ヘーゼルナッツ大好きな人を探せばいいのよ。ヘーゼルナッツのプールに飛び込んで食べまくるのが夢。みたいな人」
ニムエはしばらくつまらなそうにフライパンをゆすっていたが、やがてくすっと笑った。
「なんだか。リスみたいね」
「たしかに」
ニムエとロザリンドはくすくす笑いあった。
「さて。ではヘーゼルナッツ入りのパンケーキ作りましょ」
「いいわね。私チョコチップ買ってきた」
「素敵」
やがてシーリアもやってきた。
3人でヘーゼルナッツパンケーキのチョコチップ入りを作って食べた。