第1話「六年分の、内緒」
アルディア・フォン・クレシェントのことが好きだと気づいたのは、十二歳のときだった。
中庭で転んで、膝から血を流して、それでも泣かなかった。歯を食いしばって立ち上がって、何事もなかったように歩き出す。夏の中庭に、蝉の声だけが響いていた。
俺は呆れながら、ハンカチを差し出した。
「ちゃんと手当てしろ」
「大丈夫よ」
「大丈夫じゃない、血が出てる」
「これくらい平気」
「平気じゃない」
アルディアは少しだけ間を置いてから、ハンカチを受け取った。受け取り方が、不器用だった。
(この人は、素直に受け取れない人だ)
そう思った瞬間、胸の中に何かが生まれた気がした。
なんだこれ。
十二歳の俺には、名前が分からなかった。
十八歳になった今は、名前が分かる。
好き、という。
「クロード、何をぼーっとしている」
アルディアが廊下を歩きながら振り返った。完璧な顔に、少し呆れた表情を乗せて。
「考え事」
「何を」
「内緒」
「気持ち悪い」
(気持ち悪いって。六年間好きでいた男に対してその台詞はどうなんだ)
「ひどい」
アルディアが少し笑った。口元だけの、小さな笑みだ。この笑顔を引き出すのに、六年かかった。
「今日の訓練、遅くなるの?」
「多分夕方まで」
「じゃあ図書室で待ってる」
「何で待ってるんだ」
「帰り道、一人だと暗いから」
(暗いから、と言うが、この学院の帰り道にそんな危険はない)
(要するに、一緒に帰りたいということだ)
「分かった、終わったら行く」
「別に急がなくていい」
「急ぐ」
アルディアがまた少し笑った。
(この人が素直じゃないのは分かっている。だから俺が素直でいる)
好きだ、と言いたかった。
でも今日はまだ言わない。
言うなら、ちゃんと言いたい。逃げられないように。
(……まあ、逃げるんだろうけど)
夕方、図書室に行ったら古い紙とインクの匂いに混じって、アルディアがいた。本を三冊読み終えていた。
「遅かった」
「三十分しか経ってない」
「本が終わった」
「三冊読んだのか」
「暇だったから」
(三冊読めるほど待っていたのに、「急がなくていい」と言った人が)
「来週も訓練がある」
「来週も待つ」
「また三冊読むのか」
「四冊にする」
「……俺が早く終われるように頑張る」
アルディアが「別にいい」と言いながら本を棚に戻した。その背中を見ながら、思った。
(やっぱり好きだ)
(そして、絶対に逃げる)
言ったら、全力で逃げる。それが分かっていても。
俺は、言おうと決めた。
◇
──クロード・バレンシアの日記より。
『告白するなら、逃げられない場所がいい。どこだろう。図書室は本棚の後ろに逃げる。中庭は走って逃げる。廊下はすれ違いを装って逃げる。アルディアは逃げ場のないところでも逃げるので、たぶんどこでも同じだ』
次話:「告白した、逃げられた」




