No.66 護衛ではない時間
翌日の昼休み。
玲音は、校舎の廊下を歩きながら、何度目か分からないため息を飲み込んだ。
放課後に言えばいい。
そう思っていた。
だが、朝からずっと落ち着かなかった。
授業中も、黒板の内容をノートに写しながら、頭の片隅では別のことを考えていた。
海成くんに、どう声をかけよう。
訓練に誘うだけなら、難しくない。
これから一緒に動く機会が増えるから、連携を確認したい。
梨亜先輩を守るために、防御壁と護衛の動きを合わせておきたい。
理由はいくらでもある。
けれど、それだけではないのだ。
玲音は、海成と話したかった。
梨亜の護衛としてではなく、颯馬の兄弟子としてだけでもなく。
同い年の魔術師として。
できるなら、友人として。
「……重いかな」
小さく呟いた声は、昼休みのざわめきに紛れて消えた。
廊下には、生徒たちの声が満ちていた。
購買へ向かう生徒。
教室で弁当を広げる生徒。
午後の小テストについて言い合っている生徒。
玲音たちが通う中学校は、昼休みになると一気に騒がしくなる。
その校舎のどこかに、海成もいる。
最初にそれを知った時、玲音は少し驚いた。
神坂梨亜の護衛である海成が、普通に中学校へ通っていることにも。
しかも、それが自分と同じ学校だったことにも。
けれど、今なら少しだけ分かる気がする。
梨亜先輩は、海成くんをただの護衛として、ずっと自分の後ろに控えさせることをよしとしない人だ。
護衛だからといって、学校へ行かなくていい理由にはならない。
そばにいなくてもいい時くらい、ちゃんと学校へ行きなさい。
そんなふうに、梨亜が海成に言ったのだと聞いたことがある。
だから海成は、こうして中学校に通っている。
そして偶然にも、それは玲音と同じ中学校だった。
その中で、玲音は目的の人物を探していた。
海成が梨亜のそばにいる姿は、何度も見たことがある。
神坂梨亜の護衛として、少し後ろに控えている姿。
必要な時だけ前に出て、必要がなくなればまた一歩引く姿。
けれど、ここには梨亜はいない。
梨亜は鈴菜と同じ高校に通っている。
この校舎にいるのは、玲音たち中学生だけだ。
だから、今ここにいる海成は、梨亜の護衛ではない。
少なくとも、今この時間だけは。
同じ中学校に通う、同じ三年生の生徒。
同い年の魔術師。
そう思うと、かえって声をかける理由が見つからなくなった。
護衛の話なら簡単だ。
梨亜先輩を守るため。
連携のため。
必要だから。
けれど、本当に言いたいことは、その奥にある。
玲音は廊下の窓際へ視線を向けた。
そこに、海成がいた。
数人の生徒が近くで話している。
けれど海成は、その輪に入るでもなく、完全に離れるでもなく、少しだけ外側に立っていた。
誰かに拒まれているわけではない。
けれど、自分から近づくつもりもない。
そんな立ち位置に見えた。
玲音は足を止める。
今なら、声をかけられる。
梨亜先輩はいない。
鈴菜先輩もいない。
誰かに背中を押してもらえるわけでもない。
だからこそ、自分で言わなければいけない。
玲音は小さく息を吸った。
「海成くん」
呼びかけると、海成がこちらを向いた。
表情はいつも通り落ち着いている。
けれど玲音を見つけると、ほんの少しだけ目を瞬かせた。
「水内さん」
丁寧な呼び方だった。
同じ学校に通う同級生に向けるには、少し距離のある呼び方。
けれど、それも海成らしいと思った。
玲音は海成の前まで歩いていく。
「今、少し話してもいいですか?」
海成は一度、廊下の時計へ視線を向けた。
昼休みが終わるまで、まだ時間はある。
「はい。昼休み中であれば、問題ありません」
「ありがとうございます」
玲音はそう言ってから、少しだけ言葉に詰まった。
海成は梨亜のそばにいる時と同じように、背筋を伸ばして玲音を見ている。
でも、ここに梨亜はいない。
だから玲音は、改めて思った。
今話している相手は、神坂梨亜の護衛ではなく。
同じ中学校に通う、海成という少年なのだと。
「あ、えっと」
玲音は一度、言いかけて止まった。
本当は、すぐに訓練の話を切り出すつもりだった。
連携訓練がしたい。
防御壁と護衛の動きを合わせたい。
そう言えばいいだけのはずだった。
けれど、目の前の海成を見ていると、いきなり本題に入るのは少し違う気がした。
必要だから話しかけた。
用件があるから呼び止めた。
それでは、いつも海成がしていることと変わらない気がしたのだ。
玲音は小さく息を吸う。
「一緒に、お昼も食べませんか?」
言ってから、自分でも少し驚いた。
思っていたより、声が緊張していた。
海成も、ほんのわずかに目を瞬かせる。
「昼食、ですか」
「はい。話も、その時にできたらと思って」
海成は少し考えるように視線を落とした。
昼休み。
同級生に誘われて、一緒に昼食を取る。
ただそれだけのことのはずなのに、海成はまるで予定外の任務を確認するような顔をしていた。
やがて、静かに頷く。
「分かりました」
玲音の肩から、少しだけ力が抜ける。
「ありがとうございます」
「場所は、移動しませんか」
「場所、ですか?」
「教室では、落ち着いて話せないかと」
海成はそう言って、教室内へ視線を向けた。
昼休みの教室は、いつもより空気が浮ついていた。
弁当の匂い。
椅子を引く音。
誰かが机越しに身を乗り出して話す声。
笑い声が上がるたびに、教室全体が少し揺れるようだった。
何気ない会話なら、その中でもできる。
けれど、今から話したいことを口にするには、少しだけ賑やかすぎた。
「校舎裏の中庭に、木陰のベンチがあります。人は少ないです」
「あ、はい。そこにしましょう」
玲音が頷くと、海成はすぐに歩き出した。
その迷いのない背中を、玲音は少し遅れて追いかける。
自然と、海成の斜め後ろを歩く形になった。
それに気づいて、玲音は少しだけ苦笑する。
まるで自分の方が、護衛されているみたいだ。
廊下を進む途中、窓際にいた女子生徒たちが、こちらを見て小さく声を上げた。
「あ、海成先輩だ」
「今日も綺麗……」
「姿勢よすぎない?」
抑えたつもりの声なのだろうが、玲音には十分聞こえた。
海成は動じなかった。
聞こえていないのかと思うほど、何の反応も見せずに歩いていく。
表情も変わらない。
歩幅も変わらない。
ただ、目的地へ向かっている。
玲音は斜め後ろから、その横顔をそっと見た。
綺麗、という言葉が出るのは分かる気がした。
海成は、目立とうとしているわけではない。
むしろ、誰の視線も受け取らないようにしているように見える。
それなのに、姿勢や仕草に無駄がなくて、かえって目を引く。
女子生徒たちの視線を浴びても、海成はまったく気にしていないようだった。
慣れているのか。
それとも、本当に関心がないのか。
玲音には、まだ分からなかった。
校舎を出ると、昼の光が一気に視界に広がった。
渡り廊下を抜けた先に、小さな中庭がある。
校舎裏に位置するそこは、昼休みでも人が少ない。
数本の木が植えられていて、その下に古びたベンチが並んでいる。
風が枝葉を揺らし、地面に落ちた光の影がゆっくり動いていた。
海成は一番奥のベンチの前で足を止める。
「ここでよろしいですか」
「はい」
玲音が頷くと、海成は先に腰を下ろさず、周囲を軽く確認した。
人の気配。
出入り口の位置。
見通しの悪い場所。
一瞬でそれらを見ているのが分かった。
それから、ようやくベンチに座る。
玲音も隣に腰を下ろした。
少し間を空けて。
近すぎず、遠すぎず。
その距離を選ぶだけで、妙に緊張した。
玲音は鞄から弁当箱を取り出す。
母が持たせてくれた、いつもの弁当だった。
白いご飯に、梅干し。
卵焼き。
鶏の照り焼き。
ほうれん草のおひたし。
小さなカップに入ったポテトサラダ。
見慣れた中身に、少しだけ安心する。
一方で、海成が取り出したものを見て、玲音は思わず目を留めた。
黒い布に包まれた、細長い弁当箱。
包み方からして、きっちりしている。
海成が蓋を開けると、中身もまた、隙のないものだった。
麦の混ざった白米が、薄く均等に敷かれている。
その横には、焼き魚。
脂の少ない白身魚らしく、表面に薄く焼き色がついていた。
小さな区切りには、蒸した鶏肉と青菜。
人参、蓮根、いんげんの煮物。
さらに、薄焼き卵を巻いたものと、塩気の少なそうな漬物。
彩りはある。
けれど、どこか家庭的というより、管理された食事という印象だった。
栄養、消化、動きやすさ。
そういうものを考えて用意されたような昼食。
玲音は思わず呟いた。
「すごく、きっちりしてますね」
海成は箸を手にしたまま、玲音を見る。
「神坂家から支給されているものです」
「支給……」
昼食に使うには、あまり聞き慣れない言葉だった。
海成は何でもないことのように続ける。
「護衛業務中に支障が出ないよう、栄養管理された食事になっています」
「業務中……」
玲音は海成の弁当を見下ろした。
弁当なのに、弁当らしくない。
誰かが好きなものを入れたというより、海成が問題なく動けるように整えられたもの。
それは大切にされているとも言えるのかもしれない。
けれど、玲音には少しだけ寂しく見えた。
「美味しいんですか?」
思わず聞いてしまう。
海成は少し考えた。
「味に問題はありません」
「あ、問題……」
「はい」
玲音は少しだけ困ったように笑う。
「海成くんらしい答えですね」
「そうでしょうか」
「はい。たぶん」
海成は不思議そうに瞬きをした。
それから、玲音の弁当へ視線を落とす。
「水内さんの昼食は、家庭で作られたものですか」
「あ、はい。母が作ってくれました」
玲音は少し照れくさくなりながら、弁当箱を見下ろした。
「だいたい、いつもこんな感じです。卵焼きは、少し甘めで」
「甘め」
「はい。家の味、みたいなものです」
海成は玲音の弁当をじっと見ていた。
興味があるのか、ただ観察しているのかは分からない。
けれど、玲音の話を聞こうとしているのは伝わった。
「彩りが良いですね」
「え?」
「卵の黄色と、ほうれん草の緑が見やすいです」
「見やすい……」
玲音は思わず笑いそうになって、慌てて口元を抑えた。
褒めてくれているのだろう。
言い方は、少し独特だけれど。
「ありがとうございます。母に言ったら喜ぶと思います」
そう言ってから、玲音は何気なく続けてしまった。
「海成くんの親御さんは、お弁当とか作らないんですか?」
言った直後だった。
玲音は、自分の言葉に息を止めた。
しまった。
そう思った時には、もう遅かった。
海成の事情を、何も知らないのに。
踏み込んでいい話題かどうかも分からないのに。
海成は箸を止めた。
けれど、表情は変わらなかった。
驚いた様子も、傷ついた様子もない。
ただ、事実を確認するように、静かに言った。
「親はいません」
玲音の胸が、きゅっと縮む。
「……すみません」
反射的に謝ると、海成は首を横に振った。
「謝罪の必要はありません」
「でも」
「事実です」
海成は淡々としていた。
あまりにも何でもないことのように。
それが、かえって玲音には痛かった。
「私は元孤児です。現在は神坂家に雇われ、神坂梨亜様の護衛を務めています」
説明は簡潔だった。
感情を挟まない。
自分の過去を語っているというより、履歴を読み上げているようだった。
玲音は何も言えなかった。
颯馬のことが、ふと頭をよぎる。
颯馬先輩も、親がいないと聞いたことがある。
けれど、同じ言葉でも、そこにあるものはきっと一人ずつ違う。
簡単に分かったふりをしてはいけない。
玲音は膝の上で、弁当箱を持つ手に少し力を入れた。
「……聞き方、よくなかったです」
「問題ありません」
「でも、僕が気にします」
海成が少しだけ目を瞬かせた。
玲音は真面目に言った。
「海成くんが問題ないと言っても、僕は今の聞き方を少し後悔しています」
海成はしばらく玲音を見ていた。
それから、視線を弁当へ戻す。
「水内さんは、律儀ですね」
「そう、ですか?」
「はい」
海成は白身魚を箸で小さく分けた。
「梨亜様も、似たようなことを言います」
「梨亜先輩が?」
「はい。私が問題ないと言っても、梨亜様が問題だと判断されることがあります」
玲音はその言葉に、少しだけ表情を緩めた。
「梨亜先輩らしいですね」
「はい」
海成は短く答えた。
けれど、その声はほんの少しだけ柔らかかった。
昼の風が、木陰を通り抜ける。
玲音は弁当の卵焼きを一つ口に入れた。
甘い味が広がる。
いつもの味なのに、今日は少し違って感じた。
海成も静かに食事を進めている。
箸の動きまで、無駄がなかった。
しばらくの間、二人は黙って昼食を取った。
沈黙はあった。
けれど、さっきの廊下ほど息苦しくはなかった。
やがて、海成が箸を置く。
「それで」
玲音は顔を上げた。
「はい」
「話とは、何でしょうか」
海成の声は、いつも通り落ち着いていた。
昼食に誘われたことも。
親の話をされたことも。
そのどちらも、もう横に置いたような表情だった。
けれど玲音には、ほんの少しだけ違って見えた。
廊下で向かい合っていた時より、海成の距離がわずかに近い気がする。
それは気のせいかもしれない。
でも、今なら言える気がした。
玲音は弁当箱の蓋を静かに閉じる。
膝の上に置いた手を、一度だけ握った。
「海成くんと、連携訓練がしたいんです」




