No.59 離したくない温度
「スズ姉!」
鈴菜は驚いたまま瞬きをする。
「アヤちゃん……!」
その瞬間、菖蒲の顔がぱっと明るくなる。
迷いが消えたみたいに、彼女は一歩――いや、半歩も待てずに駆け寄った。
「ただいま!」
鈴菜は反射で息を飲み、すぐに膝を少し折った。
背の高さを合わせるように、軽く屈む。
細い腕が、勢いのまま鈴菜の腰に回る。
抱きつくというより、しがみつくに近い温度。
そして、両腕で菖蒲の背中を受け止める。
小さな体が早く呼吸しているのが分かる。走ってきたせいか、嬉しさのせいか。
鈴菜は腕に少し力を入れ、菖蒲をより引き寄せる。
小さな肩に顔を伏せ、長く息を吸って吐く。
「アヤちゃん……充電」
「はーい!」
菖蒲はニコニコしながら、鈴菜の頭を撫でる。
その一部始終を、颯馬は見慣れた様子で、呆れたように腕を組んで見ている。
菖蒲はやっと颯馬に気づく。
「あ、ソウマ!」
呼び捨てに近い、ためらいのない声。
颯馬は、いつもの軽い笑みを残したまま、けれど声だけは少し柔らかくした。
「菖蒲、図書館は走るなよ」
形式上は注意する言葉の端に、止めきれない気安さが混じる。
菖蒲は「はーい」と返事だけは素直にする。
鈴菜は名残惜しそうに腕をゆるめ、菖蒲を離した。菖蒲は颯馬の元へ向かっていく。
菖蒲は颯馬を見上げる。
「菖蒲はちゃんと道場で稽古してると聞いてる。
同年代の中でも一番腕を上げているらしいな」
「うん!」
「お世辞抜きで、お前はすごいぞ〜」
そう言って、颯馬は少し屈んで、菖蒲の頭をわしゃわしゃと撫でる。
菖蒲も誇らしげな顔をしている。
「ん゛ん」
不意にどこからか咳払いする音が聞こえる。
颯馬は手を止め、その音の方へと目を向ける。
少し離れたところに立つ鈴菜がいた。
彼女の目は颯馬の手へと向いていた。
「……」
颯馬は目を細め、再度菖蒲の頭に手を近づける。
「……ん゛ん」
即座に、もう一度。
鈴菜の咳払いは、さっきより少しだけ強い。
颯馬の指先が止まる。
一拍。
鈴菜と颯馬の目が合う。
颯馬は目を離し、気にすることなく菖蒲の頭を撫でた。
鈴菜の喉が「ぐっ」と鳴った。
颯馬が眉を寄せる。
「何だよ」
「……別に。何でもない」
鈴菜は腕を組んでぷい、と目を逸らした。
「スズ姉!」
不意に菖蒲から声をかけられ、鈴菜の体がぴたっと止まった。
菖蒲が颯馬の元を離れ、鈴菜に向かって走っていく。
菖蒲が『しゃがんで』と手で合図する。
鈴菜が腰を落とす。
菖蒲は小さな手を鈴菜の頭に置いて、そっと撫でた。
「スズ姉も撫でて欲しかったんだよね!」
「……」
鈴菜は目を丸くし、しばらく固まる。
「ちが――」まで言って、鈴菜の声が尻すぼみになる。
鈴菜はずるずるとしゃがみ込み、膝を抱えた。
頭を菖蒲に預け、どこか満足そうな顔をした。
颯馬は腹を抱えた。
「……姉の威厳、どこ置いてきた」




