No.58 書類と、稽古と
鈴菜が呼んだ名に、青年はゆっくり振り向いた。
静かな視線が、鈴菜を捉える。
加原颯馬は、何も言わないまま一瞬だけ目を細めた。
――沈黙。
受付の灯りが二人の間に落ちた。遠くで司書の足音が乾いて響く。
鈴菜は喉の詰まりをごまかすみたいに、咳払いをひとつして、肩をすくめた。
そして、彼女は手に提げていたカバンの口を乱暴に開けた。
そこから分厚い束を引き抜く。
紙の束が、ずしりと重い音を立てた。
「はい、これ」
鈴菜はそれを、颯馬の胸に押し付けるように渡した。
「“あなたの仕事”。私が代わりに回してた分。これで終わり。」
鈴菜がそう言った瞬間、空気の硬さがほんの少し緩む。
颯馬は笑って、その隙を突くように言った。
「でも、俺が頼んだら、ちゃんとやる。偉いな」
「大事な用かと思ったけど。……この量は聞いてない」
鈴菜はそう言い、わざとらしく肩を落とした。
書類の角が揃っているだけで、気が遠くなる――鈴菜には、それで腹いっぱいだった。
颯馬も同じだ。
受け取った束を見下ろしたまま、ほんの一瞬だけ目を細めて、すぐに笑って誤魔化した。
「……相変わらず、報告書は手強いな」
その言い方は軽いのに、手は正直だった。
紙束を抱え直す指先が、ほんのわずかに嫌そうに動く。
鈴菜は鼻で笑う。
「手強いんじゃなくて、単に嫌いなだけでしょ」
「否定はしない」
颯馬は肩をすくめた。
戦闘の段取りや他の仕事なら迷わないのに、報告書の束だけは、二人とも同じ顔になる。
「本人を前にして、こんなに悪態つくのはお前くらいだな。
俺、一応師匠なんだけど?」
「……昔の話を掘り起こすとか、もうそんなに歳?」
鈴菜がそう言うと、颯馬は小さく笑い、わざとらしくため息をついた。
「ひどい弟子だな」
「弟子じゃない。もうとっくに卒業した」
「口だけはな」
颯馬は軽く返し、紙束を受付カウンターの端にどさりと置いた。
角が擦れて、乾いた音が跳ねる。
鈴菜はその音に顔をしかめた。
「……それ、今すぐ提出?」
「本当はな。俺の計画では、もっと早く片付けてるはずだった」
「計画」
鈴菜が鼻で笑う。
「師匠の計画はいつも、書類上でしか成立してない」
「言うな。俺も分かってる」
颯馬は肩をすくめ、視線だけで鈴菜を測った。
稽古場でよく見る視線。
息づかい、立ち方、疲れの残り方――そういうものを、言葉より先に拾う目。
「……で。鈴菜」
呼び方が変わった瞬間、空気が少しだけ締まる。
冗談の輪郭が薄くなる。
鈴菜はその気配を感じとる。
一瞬目を見開き、反射的に姿勢を正した。
背筋が伸びる。呼吸が浅くなる。——道場の癖だ。
加原道場。
魔術と魔法を“習い事”のように訓練できる場所――そう呼ばれてはいるが、実態はそれなりに厳しい。
魔力の制御、身体の使い方、呪術師への対処。
「使える」だけでは足りない世界のための、基礎から叩き込む場所。
そして颯馬は、そこにいる人間たちの中心にいる。
この道場の厳しさは、見栄と無縁だ。
生きて帰るための現実だけで出来ている。
颯馬は孤児だった。
救われたあとも、救われない側の目を捨てない。
弟子は多い。
だが、鈴菜にとっての師匠は一人だけだった。
颯馬が口元の笑みを残したまま、低く言う。
「顔色、悪い。寝てないだろ」
「……仕事してたから」
「書類の話じゃない」
鈴菜は言い返しかけて、止めた。
師匠の“やめろ”は、叱責より静かで、抗うほどに自分が揺れる。
「……大丈夫」
やっとそう言うと、颯馬は「そうか」と短く頷いた。
肯定ではない。保留の頷きだ。
「大丈夫って言うなら、稽古で証明しろ」
鈴菜の眉が跳ねる。
「道場に顔出せ。少しだけでいい」
鈴菜は口を開きかけて、また閉じた。
断る言葉は用意していたはずなのに、師匠の一言で散らばる。
「……今日は帰りたい」
「なら、送る」
さらりと言われて、鈴菜は思わず颯馬を見る。
冗談かと思ったが、颯馬の目は笑っていない。
「師匠は暇なの?」
「暇じゃない。……だからこうして書類も持ってる」
颯馬は紙束を軽く揺らしてみせる。
「でも、優先順位ってものがある」
鈴菜は一瞬だけ、言葉を失った。
優先順位。
それを口にするのが、どれほど面倒くさがりで、どれほど合理的なこの人にとって“異例”か、知っている。
鈴菜は視線を逸らし、受付の床の模様を見た。
鈴菜の喉が、少しだけ詰まった。
颯馬はその様子を見て、ようやく笑みを深くした。
「冗談だ」
言い切るのが妙に早かった。
言葉で蓋をしてしまうみたいに。
そのあと少し遅れて、息がほどける。
「帰るなら帰れ。でも」
颯馬は鈴菜の横を通り、扉の方へ顎をしゃくる。
「それはまだ早いかもな」
その言い方は軽い。
颯馬の視線が、先に扉へ滑った。
彼の視線を追って、鈴菜も気づく。
図書館の大きな扉。
そこから入ってくる気配が、一つ。
軽い足音。小さく、速い。
規則正しいというより、弾むような――迷いのない勢い。
小さな影は、迷いなく鈴菜を見つけると、さらに速度を上げた。
抱えていた何か――薄い本か、紙の束か――が腕の中で揺れて、落ちそうになるのに、本人は気にしない。
そして、灯りの下へ飛び込む。
頬が赤い。息が切れている。
でも目だけは、嬉しさでまっすぐだった。
鈴菜が名前を呼ぶより先に、少女の声が弾ける。
「スズ姉!」




