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色情狂ラビリンス


 着慣れないスーツに身を包み、ぱたぱたと忙しなく室内を駆け回る。


「……ん、どうしました?」


 煩くしすぎたのかしら。

 奥の部屋で眠っていた由多朗さんがのんびりと起き上がってきた。

 昨日も遅くまで原稿やっていたのに、悪いことしちゃったな。


「あ、ごめんね、由多朗さん」


「いいですよ……ふぁ。奈津乃ちゃんが出かけたらまた寝ますから」


「う……」


「で、何をお探しで?」


 アタシは腕時計で時間を確認しながら、USBメモリを探していると告げた。

 原作や小説の入ったものとは別の、違う仕事用に使っているもの。

 あれがないと仕事にならないのに。


「それなら、昨日カバンの中に入れてませんでした?」


「え!」


 由多朗さんが指差したアタシの黒い鞄。

 肩に掛けていた鞄を開けてしばらく中を漁っていると、鞄の中のポケットに入っているブルーのメモリを見つける。


「あった! ありがとう」


「どういたしまして」


 由多朗さんはにっこりと微笑むと同時に欠伸を漏らした。

 いつも通り眠そうな姿に、アタシもつい笑ってしまう。

 再び時計を確認。

 今ならまだ、約束の時間に間に合うよう。

 アタシは一度全身鏡の前に立って、スーツを整える。


「奈津乃ちゃん、襟が曲がっていますよ」


「え? やだ、由多朗さん、ちょっと直して」


「はいはい」


 アタシは由多朗さんに背中を向けて、少し頭を下げる。

 由多朗さんの手が首に掛かる髪を払い、襟を整える。

 鏡に映るその顔は真剣そのもので、アタシは黙って由多朗さんを見つめていた。


「……はい、どうぞ」


 手が離れたと同時に、由多朗さんはアタシの髪をすくい口付けをする。

 アタシはその頭を軽く叩いた。


「急いでるの、後にして」


 そのまま、玄関へ向かう。

 黒いハイヒールを履き、今日の段取りを頭の中で確認する。

 今日の仕事は今までとは少し違う。

 初めて、アプリのゲームシナリオの依頼を受けたのだ。

 やる気が出ないわけがない。


「後ならいいみたいな言い方ですね」


 見送りに出てきた由多朗さんが不敵に微笑む。

 だからアタシは、舌を出してドアを開けた。


「アタシに手ぇ出すなら、ちゃんと針三本飲んでからにしなさい」


 やれやれと肩を竦めた由多朗さんの「いってらっしゃい」に「いってきます」と答え、アタシは部屋を飛び出した。



 物語を作ることを夢にしてから、早六年。

 時間が欲しくて大学を辞め、話作りや知識を増やすことに時間を費やした。

 そして今、アタシは小説家としてはそれなりになった。

 なるべく出版社の漫画の雰囲気に近い小説を応募したら、幸運にも編集者の目に止まり、その作品を基に原作を作った。

 これがアタシの初めての作品。作画が女の先生でやりやすかった。

 その連載は終わったけど、今でも彼女とは仲が良く、休みが合えば飲みに行く関係が続いている。その人はビール二杯で酔っちゃうから大した飲み会にはならないけれど。

 その間にも何作か別の小説を書いた。

 そのうちの一つが、同じ出版社のラノベの賞を取って、それは今でも話が続いている。

 もう四年目かな。

 原作としては、今、一つ書いているものがある。

 由多朗さんとコンビを組んで、現代魔法バトルな漫画を連載中。これは正直コネがあったことを否定できない。でも、今は雑誌内でも中間から上位をさ迷うくらいには人気が固定されてきたから、必ずしもコネだけじゃなかったって証明出来ている。

 アニメ化の話も上がっては来ているらしい。これについては由多朗さんの方がまだ話が溜まっていないと言って断っているそうだ。

 今から向かうのは、とあるゲーム会社。

 新しく作るゲームのシナリオを作ってほしいと声を掛けられた。

 そういった仕事は初めてで緊張しているけど、アタシを選んでもらえたことは嬉しい。

 急かす心とは反対にタイトスカートはアタシの歩幅を制限する。

 ハイヒールには慣れているけど、堅苦しいスーツ姿で動きにくくて仕方ない。

 アタシは決して足を止めず、目的地のビルへと向かう。

 足を止めたら、きっとハルちゃんを思い出して動けなくなるから。

 今、ハルちゃんは幸せでいられてるのかな。

 アタシの大好きな笑顔を浮かべているのかな。

 由多朗さんから伝言を受けた「頑張れ」の一言は、いつまでもアタシを支えてくれる。

 ハルちゃんはアタシの初恋で、美しい思い出だから、忘れることなんて出来ない。

 電車の窓から眺めた町並み。

 工事中のマンションや、取り壊されたビル。

 景色は、どんどん姿を変えるけど。

 好きだった気持ちは、変わることない。

 教えられたビルに到着し、アタシはスケジュール帳を鞄から出した。

 メモしてあった会社名が、入り口の看板に表示されていることを確認した。

 そんなに大きな会社ではなくて、ビルの一階分のスペースしかない。

 最近、人気声優を起用した女性向けリズムゲームがヒットしたアプリ制作会社だ。アタシも仕事を受けてすぐにやってみた。リズムゲームが苦手だからすぐ飽きちゃったけど、確かにシナリオは甘酸っぱくて女の子がときめく内容って感じだった。

 自動ドアが開き中に入ると、内線と各フロアへの直通番号の記載されたパネルがあった。

 アタシは会社名の下にある番号を押して、すぐに出てきた元気の良い女性へと自分の名前、そして担当責任者の名前を伝える。


『斉川奈津乃様ですね。お話伺っております。お伝えしておきますので、エレベーターで四階までお上がりください!』


 やけに明るい子だった。新入社員かしら?

 アタシはエレベーターへ向かい、ボタンを押すとすぐに開いたエレベーターに乗り込み、言われた通り四階を押す。

 誰もこなかったから「閉」を二、三回連打したら、のんびりと扉は閉まった。

 足元が浮かび、持ち上げられる感覚。

 地面が不安定になるこの感覚が、アタシは苦手。


「……はぁ」


 ゲーム関係の仕事、と聞いて真っ先に浮かんだのはハルちゃんの顔。

 将来の夢だって、語ってくれたわ。

 そんなキラキラ光る表情が羨ましくて、アタシも自分の夢を見つけようとした。

 結果としては夢は見つかり、そして叶った。

 引き替えにしたものは、あまりに大きかったけど。

 だってね、結局ハルちゃんの一番って裕理だったのよ。

 薄々感じてはいたけど、アタシは自分が大事だったから見て見ぬふりしてた。

 あの二人の間にあった絆は、他人が入れるようなものなんかじゃない。

 チン、と甲高い音が鳴りエレベーターが止まる。

 そして、開くドア。

 さっきの女性社員からの連絡を受けたようで、開いたドアの先に男の人が立っていた。

 アタシよりも少し年上くらいにしか見えないその人は、笑顔を浮かべアタシに頭を下げる。


「こちらから頼んでおいて、わざわざ足を運ばせる形となってしまい、申し訳ありません」


「気にしないでください。私、一度現場を見てみたいと思っていましたから」


 男の人は顔を上げると、恐縮そうに頬を緩めた。

 アタシはそっと右手を差出し、不敵とも取れる笑みを浮かべた。


「お声を掛けて頂き、光栄です。これからよろしくお願いしますね」


「はい、こちらこそ」


 男はしっかりとアタシの手を取り、力強い握手を交わす。

 満ち溢れたやる気が手の平から伝わってくるようだった。

 手を離すと男はジーパンのポケットを探り、名刺を取り出した。


「電話でお話はしましたが、直接お会いするのは初めてでしたよね」


 アタシも慌てて鞄から名刺ケースを取り出すと、自分の名刺を差し出した。

 お互いに交換をし終えると、男……中野竜真さんは辺りをキョロキョロと見渡した。


「このゲームのプロジェクトリーダーは僕なんですが、SEの方のリーダーの紹介もしておきますね」


 誰かを探しているようで、アタシもつられて社内を見回す。

 みんな、中野さんと同じで割とラフな格好をしていて、スーツ姿は少し浮いていた。

 髪色も自由で、若い人が多い。


「結構自由なんですね」


「そうですね。若い人も多いですし。斉川さんも次回いらっしゃる際には私服で構いませんよ」


 気にしていたことをズバリ言い当てられ、アタシは苦笑せざるをえない。

 茶髪の人に自然と目がいくのは、やっぱりハルちゃんの面影を探してしまうから。

 気付けばアタシは、ふわりとした茶色の髪が肩に掛かる女性社員の後ろ姿を凝視していた。

 すると、パソコンと向かい合っていたその人も視線を感じたのかゆっくりとこちらを振り返る。


「……う、そ」


 茶髪のその人は、振り返りアタシに気付くと目を一杯まで見開いた。

 アタシは震える手で口元を押さえる。

 そんなことって、ない。

 こんな、まるで小説のような都合のいい展開なんて。


「あ、いるじゃん。相原、来い!」


「は、はい!」


 固まっていたその人は、中野さんの一声でスイッチが入ったかのように動きだした。

 アタシはまだ、動けないまま。

 歩くたびにふわりと揺れる髪から目が離せない。


「彼女が副担当の相原春緒。確か、斉川さんと同い年のはずだよ」


 嘘だ、これは夢なんだ。

 目を瞠り、真っすぐにハルちゃんを見上げる。

 相変わらずアタシより高い身長。

 ふわふわとした髪も変わらない。

 少し化粧気があったけど、よく見ないとわからないくらい薄化粧だった。

 大学生の頃よりも、ずっと綺麗になっていた。

 ハルちゃんも、同じ。

 呆然とした様子で、じっとアタシを見下ろしている。

 動かずにいるハルちゃんの頭を、中野さんが叩いた。


「ぼさっとするなよ、相原。ほら、挨拶」


「す、すいません……。その、大学時代の友人だったんで驚いてしまって……」


 友人。

 その言葉に、胸がちくりと痛んだ。

 当たり前だけど、恋人とは言えないわね。

 中野さんは驚き、アタシとハルちゃんを交互に見比べる。


「へぇ、そうだったのか。お前よく斉川さんの作品読んでるからファンなんだと思って黙ってたのに、知り合いだったのかよ」


「おかしいとは思ったんですよ。中野さんがずっと秘密にしてるから……」


「まぁ、正式に確定するのが結構ギリギリだったからってのもあるんだけどさ」


 二人の会話が右から左へと流れていく。

 まさか、こんなふうに再会するなんて思いもしなかった。

 そもそも、再会することすら考えていなかった。

 姿を消したアタシだから、二度とハルちゃんの前に現れちゃ駄目だと思っていた。

 だって、アタシがいたらハルちゃんはまた迷ってしまうから。

 困ってしまうから。

 今も、ハルちゃんは困惑した表情を浮かべている。

 アタシに、どんな顔をすればいいのかわからないみたい。

 ……ばかだなぁ。

 ハルちゃんはただ、笑ってくれればいいだけなのに。


「……夢、叶えたんだね」


 おめでとう、とアタシは笑う。

 昔と一ミリも変わらない、少し意地悪に口角を吊り上げた笑い方。

 捻くれた性格が露わになっている、大胆不敵なアタシの態度に、ハルちゃんは小さく吹き出した。

 ……ようやく、笑ってくれた。

 久しぶりに見た笑顔は昔よりもずっと穏やかで、綺麗で、息が詰まった。

 知らない間に美しさを増した笑顔の理由を考えると、淋しくなる。

 むしろ、悲しそうな顔をしてくれたほうがよかったと思ってしまうアタシは、本当にひどい奴。


「相原、ちょっと休憩取ってこい」


「え?」


「友達なんだろ? 近くで飯食いながら話してこいよ」


「いいんですか?」


 ハルちゃんの笑顔が、弾ける。

 嬉しそうな顔にアタシは少しびっくりした。

 まさか、こんなに喜ぶとは思わなかったから。

 中野さんはくつくつと笑いながら、近くの机の上にあった資料をハルちゃんの手に押しつける。


「昔話ついでにこっちの説明もしてくれればいーからさ」


 ハルちゃんは資料を受け取ると、思い切り頭を下げた。


「ありがとうございます!」


「領収書も切って良いぞ」


 その喜びようには、中野さんも首を傾げながら頷くのみ。

 アタシも会釈をすると、すかさずハルちゃんがアタシの手を取った。

 躊躇いなく触れる指先に、アタシの身体には電流が走る。

 未練があるとかないとか、そういう話じゃないの。

 懐かしさに、涙が出そうになっただけなの。

 鼻歌でも歌いだしそうな程に浮かれたハルちゃんに手を引かれ、アタシはエレベーターに乗り込んだ。


「奈津乃は何食べたい? 近くに美味しい中華があってね。あ、でもお昼には少し早いか。喫茶店とかのほうがいい?」


 饒舌なハルちゃんに口を挟めず、ぽかんと見上げていると、ハルちゃんは「しまった」と顔に出す。


「ごめん、まくしたてるみたいに喋っちゃって」


 空いている手で髪を掻き上げ、ため息を吐いている。

 困った姿が、相変わらず可愛くてアタシは吹き出した。


「奈津乃?」


「ふふ、何でもない」


「本当? そうやって笑うときっていつも何か考えてるよね?」


 じっと見つめる瞳を、アタシは笑ったまま誤魔化す。

 聞き出せないとわかると、ハルちゃんは観念して目を閉じた。


「……ちょっと、驚いた」


「……アタシも」


 それからエレベーターが一階に付くまで、アタシたちは黙っていた。

 気まずかったのではなくて、ただ、何も言わずに二人の空気を感じたかっただけ。

 昔に戻ったかのような錯覚をさせる空気に、浸かりたかっただけ。



 結局お互いあまりお腹は空いてなかったから、近くのカフェに入ることにした。

 コーヒー二つとサンドイッチを注文し、アタシたちはゆっくりと話し始める。


「ハルちゃん、本当にゲームのお仕事してるのね」


 凄いなぁ、と微笑むと、ハルちゃんは苦笑しながら首を振った。


「奈津乃のほうが凄いよ。漫画に小説。両方読んだよ。……なんか、すごく感動した」


 ハルちゃんの言葉に、アタシは静かに微笑んだ。

 初めて賞を取り、出版した小説は、正直な話がただの自己投影とアタシの願望。


「お待たせいたしました」


 湯気の立つコーヒーが二つに、レタスやハムを挟んだサンドイッチが二皿。

 ハルちゃんはカップを取り、冷ますために息を吹き掛ける。

 アタシはミルクを入れ、ティースプーンで掻き回した。


「……あの物語は、奈津乃の本心?」


 熱さを確認するように少しずつコーヒーをすすっていたハルちゃんが、ぽつりと呟いた。

 アタシは掻き混ぜる手を止め、ティースプーンをぺろりと舐める。

 ハルちゃんが、真っ直ぐにアタシを見つめていた。

 今連載をしているアタシの小説には、三人のメインキャラクターがいる。

 一人は主人公のさばさばしているのに妙に女らしい女の子の律夏。

 一人はその女の子の中に宿る別人格の男の子の律。

 そしてもう一人が、一巻で事件に巻き込まれ、それをきっかけに行動を共にするようになった男の子の奏。

 簡単な話が、主人公がもめ事に巻き込まれ、別人格や男の子と協力して解決していく一巻完結型の話。

 見物の一つなのは、三人の三角関係。


「律夏が私で、律がユーリ、そして奏が奈津乃……違う?」


「……」


「律夏と律の絆は強くて、誰も入れない。でも、奏は律夏とも律とも仲良くなっていって、次第に律夏に惹かれて……」


 アタシはハルちゃんの声に耳を傾けながら、目を閉じた。

 本当に読んでくれていたことが、嬉しかった。

 ひどい消え方をしたのに、それでも気にしていてくれたことが嬉しかった。


「奈津乃。あの小説を読んでいて、私は凄く不安になった」


 真摯な声に耳を打たれ、アタシはゆっくりと目を開ける。

 泣きそうな顔をしたハルちゃんが、そこにいた。


「奏は律夏に恋をしたことで、苦しんでばかりだ。……私は、奈津乃をずっと苦しめていたの?」


 泣かないで、と言っても意味はないだろう。

 この小説は、アタシの自己投影と願望。

 だけど、これが全てじゃないの。

 だってアタシの恋は……幸せだった。


「アタシはね」


 見つめ返せば、不安に揺れる瞳がアタシを捉える。

 アタシはこの子に恋をして、無償の愛を与えてもらった。

 ハルちゃんがいなければ、今のアタシも存在しないの。


「ハルちゃんと出会えたことが人生の宝だと思ってる」


 テーブルに両肘を付き、指を組むとその上に顎を乗せた。

 上目遣いな視線を送れば、ハルちゃんは疑うようにアタシを見ていた。


「アタシ、話したよね? 愛情を知らなかったって。でもね、アタシはハルちゃんに愛情を教えてもらった。愛することも愛されることも、たくさん、もらった」


「苦しくはなかった?」


 その質問には、正直NOだ。

 だってハルちゃんは、結局裕理が好きなんだもん。


「苦しかったけど、楽しかったし嬉しかったし幸せだった。知ってた? ハルちゃんはアタシの初恋なのよ?」


 苦しくない恋なんてない。

 甘いだけの恋ならそれは、ただの茶番。

 幸せでも、楽しくても、嬉しくても、必ずどこかに苦しみはある。

 だけど、苦しくたっていいじゃない。

 だって、愛しちゃったんだから。

 ハルちゃんの表情は少し困っている。

 アタシが気を遣って嘘を吐いていると疑ってる。

 でも、仕方ないかな。

 そう疑われてもおかしくない離れ方をしてしまったもの。

 アタシは、緩やかに微笑んだ。


「幸せだったよ」


「……」


 ハルちゃんは黙って俯いた。

 その肩がくつくつと震えている。

 アタシはそっと手を伸ばし、机の上のハルちゃんの手の上に、自分の手を重ねた。


「……ごめ、ん」


「ハルちゃん……」


「私の態度が……苦しめてたよ、ね……」


 ぽつ、ぽつりと机の上に落ちる涙。

 俯いたハルちゃんの睫毛を伝い、きらきら光る。

 綺麗だ、なんて見とれていたら不謹慎かしら。

 アタシの手の中で、温かな手が震える。

 震えを押し潰すように、アタシはハルちゃんの手を握り締めた。


「やっぱり……私、ユーリがっ……大切で、離れるなんて出来なくて……」


「わかってた。わかっててアタシは二人の優しさに付け込んだわ。謝るのは、アタシよ」


「違うよ、奈津乃。奈津乃は悪くない……!」


 ハルちゃんは顔を上げると、濡れた瞳で悲痛な声を上げた。

 今でもハルちゃんは、アタシに無償の愛をくれるの。

 手の下にあったハルちゃんの手がするりと逃げ出し、アタシの手の上に重ねられた。


「私は奈津乃を幸せにしたかった! 笑っていてほしかった!」


 喫茶店の中に響いた声。

 お昼時を外していたから人はあまりいなかったけど、店中の客や店員の視線を集めた。

 ハルちゃんは気にする様子もなく、アタシを見つめる。

 周囲の視線も、すぐに散り散りになった。


「奈津乃は……私を救ってくれた。他人を信じられなかった私を……変えてくれたんだ……」


 強い力で握り締められ、アタシは驚いて肩を震わせた。

 それだけの想いが、ここにある。

 気付いてしまえば、アタシの瞳にも涙が溜まり始めた。


「アタシだって……救われたのよ」


「奈津乃はいつも、私に救われたって言ってくれるよね。だけど、私だってそうだったんだよ……」


 ハルちゃんは涙に濡れた頬を緩めて、ぐしゃぐしゃに笑った。


「……はは、なんかお互い様だ」


「そうね」


 ハルちゃんは手の甲で目元を拭う。

 化粧が落ちるじゃない。

 アタシは慌てて鞄からハンカチを取出し、身を乗り出してそっと目元に押し当てた。

 私さ、とハルちゃんはぽつぽつと語りだす。

 真っ赤な目をして、微笑を浮かべながら。


「たぶん、ずっとユーリが好きだったんだ」


「うん」


「あまりにも近くに居過ぎて、その気持ちがどういう好きかよくわかんなかった」


 アタシはただ頷いて、ハルちゃんを真っ直ぐに見つめ返す。


「奈津乃が好きだったのは嘘じゃないよ。友情じゃない、本気で、好きだと、大切にしたいと思った」


 そんなこと、言わなくてもわかってるよ。

 そう言うと、ハルちゃんは首を振った。


「言葉は言わないと伝わらない。私はそれを思い知った。だから、伝えるよ」


 少し責めるような口調に、アタシは心が痛む。

 確かに、あの時のアタシたちに言葉が足りなかったわね。


「ユーリは……特別だった。奈津乃が書いてる小説の律夏と律みたいな関係……もう、自分の一部みたいだったんだ」


 他人を信じられなかった、と言うハルちゃんはユーリのことだけは無条件に信じていた。

 だってユーリは、ハルちゃんの一部だったんだもの。


「あの時、私には大切な人が二人いて、一人はその大切さに気付いていなかった……」


「……裕理が好き?」


 アタシの問いに、ハルちゃんは少しだけ首を傾げた。


「好きっていうより……大事。大事な存在」


「大事……」


「ユーリはずっと傍にいてくれて、ずっと私を守ってくれてたんだ。自分を殺してまで、私の幸せを願ってくれていた」


 それも、よく知ってる。

 ハルちゃんの幸せがアタシといることだったから、裕理はアタシにも優しくしてくれた。


「ずっと我慢してきたユーリに一回だけ、本当に一回だけ告白されたんだよ」


「うん」


「そのときに、私はわからなくなった。何が一番大切かわからなくなって、頭が真っ白になった」


「うん」


「……私のそういう態度が奈津乃を離れさせたんだよね」


 アタシは目を伏せ、笑みを浮かべる。

 きっかけはそれだったけど、アタシが離れた理由は一つだけじゃないの。


「ハルちゃんの態度だけが原因じゃないよ。アタシは夢を選んだってこと」


「奈津乃は優しいね……」


 ハルちゃんの呟きの意味がわからず、首を傾げた。

 アタシが優しい?


「そうやって、私が負い目を感じないようにしてくれてるだろ?」


 そんなつもりはないんだけどな。

 アタシは視線を宙に浮かせた。

 ハルちゃんと同じで、気持ちを素直に口にしてるだけ。

 確実に負い目を感じているハルちゃん。

 どうしたら、そうじゃないってわかってくれるのかな。

 アタシは机の上の手を持ち上げて、両手でハルちゃんの頬を包んだ。


「アタシ、夢を叶えるには由多朗さんの傍にいるほうが都合良かったの。それに、大学行ってる時間も惜しかったしね」


 何にも嘘は吐いてない。

 由多朗さんは、あの後すぐにアパートを引っ越して、編集者により近いマンションに移動した。

 アタシもずっとそこにお世話になってる。

 本当に、アタシってひどいくらいにあっさりと消えたのね。

 でも、それくらいしないとアタシたちは離れられなかったと思うの。

 少しでも甘えを残してしまったら、すぐに会いに行きたくなっていたから。


「それに……正直な話ね、アタシ、裕理がいたから心配せずに離れられたのよ」


「え?」


「癪だけど……裕理がいれば、ハルちゃんを必ず守ってくれるじゃない。裕理は恋敵だったけど……信頼はしてたわ」


 本当に困っちゃうわ。

 変な話よね。

 ハルちゃんを奪われるんじゃないかって怖かったのに、ハルちゃんを任せようと思えばこれ以上頼りになる人はいない。


「……夢を見つけたときに思ったの。変わらなきゃいけないって」


 真っ直ぐにハルちゃんの瞳を覗き込む。


「変わらなきゃと思ったときにね、真っ先にハルちゃんの顔が浮かんだ」


 アタシ、いつまでハルちゃんに甘えるのかなと不安に思った。

 それじゃあ駄目なんじゃないかな、と漠然と感じた。

 ハルちゃんにだってハルちゃんの未来がある。

 アタシがこのまま隣にいたら、ハルちゃんはアタシのために生きようとしてしまう。

 そんなのは、嫌。

 ハルちゃんがアタシの幸せを願うのと同じで、アタシもハルちゃんには幸せになってほしい。


「今も裕理は隣にいる?」


「え? うん」


「幸せ?」


 ハルちゃんは何度かまばたきを繰り返すと、アタシの手を掴み頷いた。


「幸せ、だよ」


 綺麗な笑顔に、目を奪われる。


「なら、いいの」


 それがアタシの願いだったから。

 これから先も、裕理ならハルちゃんの笑顔を守り続けてくれると信じてる。

 アタシなんかより、ずっと上手に。


「……アタシも一つ言いたいことあったんだ」


「何?」


 アタシはハルちゃんの頬から手を離し、頬杖を付いて無理に笑う。


「アタシ、ハルちゃんにお母さんを求めちゃってたみたい」


 しばらくハルちゃんはきょとんとして、思い切り吹き出した。

 ひどいなぁ、と唇を尖らせれば、ごめんと笑うハルちゃんの声が返ってくる。


「それが、言いたかったこと?」


「うん。……恋人としても好きだったよ。でも、それとは別にお母さんに甘えるような部分もあったんだ」


 甘えっぱなしで、情けなくなる。

 浮かべた微笑が無理矢理だと気付いたのか、ハルちゃんはアタシの頭をぽんぽんと撫でた。


「何だっていいよ。私を必要としてくれてたんなら」


 その一言に、アタシは救われる。

 重くのしかかっていた罪悪感が、風に吹かれて消えていくようだった。


「ゆた兄は、元気?」


 ハルちゃんは上目にアタシを見つめ、様子を窺うように尋ねる。

 アタシは頷くと、身体を背もたれに預けた。


「元気元気。ていうか、元気ない由多朗さんって見たことない」


 あ、お腹すいたときは元気なかったかな。

 付け加えると、ハルちゃんは吹き出した。

 しばらく笑っていたあとに、ふと笑みを消して、震える声を出す。


「奈津乃は……ゆた兄が……好き?」


 その質問には、どう答えるべきかわからなかった。

 だってアタシと由多朗さんって、お互いにいることが当たり前になってきたんだもん。

 年期は浅いけど、ハルちゃんと裕理みたいに。


「わかんない」


 素直に答えることにした。


「でも、由多朗さんはアタシのこと好きだって」


「……やっぱり、そうだったんだ」


 ハルちゃんは少し眉をしかめて、観念したようにため息を吐いた。


「興味ないみたいなこと言ってたくせに」


「あら? でも、針三本の約束は未だに守ってるわよ?」


「はぁ?」


 心底呆れた様子でハルちゃんは目を見開いた。

 信じられないといった様子。


「本当に?」


「えぇ」


「……嘘だろ」


 ハルちゃんは頭を抱えて机に突っ伏した。

 何をそんなに落ち込むのかしら。

 アタシはハルちゃんのつむじを指先で突く。


「私、とっくにゆた兄は奈津乃に手ぇ出してると思ってた……」


「そうなの?」


「だから、奈津乃がゆた兄のことをどう思ってるか不安だったのに……。なんか、嫌々とか世話になってるから仕方なくとかだったら、嫌だなって」


 さっきの質問には、そういう意図があったのね。

 アタシは突いていた指先で、ぐりぐりとハルちゃんのつむじを押してみる。

 ハルちゃんはアタシの手を止めることはせず、唸り続けた。


「奈津乃!」


「わっ! どうしたの?」


 急にハルちゃんが顔を上げたものだから、アタシは慌てて手を引っ込めた。

 ハルちゃんは真剣な表情で、きっぱりと言った。


「あの指切りは時効ってゆた兄に伝えて!」


「え?」


「でも、奈津乃を幸せにする自信がないなら継続させていいから!」


「ハルちゃん……?」


「私ばっかり誰かに大切にされるんじゃあ、納得出来ない。奈津乃も、誰かに愛されてほしい」


 力強い声に乗せられた飾らない言葉たちが、まっすぐに胸を打つ。

 アタシは返事を忘れ、ただハルちゃんを見つめていたら、ハルちゃんがふっと微笑んだ。


「それに、出来るなら奈津乃を愛する人の中に、私もいれてほしいんだ」


「え……?」


「もう一度、始めよう? 今度は友達として。そうやって、一緒に生きていこうよ?」


 友達。

 それはアタシの中で考えていなかった選択肢だった。

 ハルちゃんを恋愛対象以外に考えたことがなかったとかそういう話じゃなくて、そもそも「友情」という発想がアタシからすっぽり抜けていた。


「本当に、いいの?」


 アタシ、またハルちゃんといられるの?

 今度は友達として、その笑顔を見つめていいの?


「奈津乃が望むなら、是非」


 そう言って伸ばされたハルちゃんの手を無視して、アタシは立ち上がりハルちゃんの頭に抱きついた。

 涙が流れて消えるアイラインも気にしない。

 迷い続けて行き着いた先に、貴方が待っていてくれた。

 アタシを引っ張ってくれた温かい手を、今度は大切にしよう。



おわり

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