第1節 軋む世界の底(前編)
家畜の生糞と、腐敗した冷却液、そして焦げついた鉱物油の匂いが、最下層の狭小通路に濃密に澱んでいた。
頭上三メートルを通る主構造フレームが、低く湿った悲鳴を上げる。ギィ、と金属が擦れ合う音が足裏の肉を通して骨まで響いた。骨組み全体が、目に見えない巨大な力で捻じ曲げられようとしている証拠だった。
ルカは首元から下げたハンディ型の物理応力計測アナライザーを指先で弾き、短い液晶画面に走る赤い波形を睨みつけた。首筋から胸元にかけて刻まれた古い火傷痕が、熱を帯びた空気の中で引きつる。
「おい、ルカ! 第7区画のバイパスが弾け飛んだぞ! 家畜用の減圧バルブが圧壊する! 早くあの赤バルブを力任せに閉めろ!」
作業着を泥と汚物に塗らした家畜管理作業員が、蒼白な顔で通路の壁にしがみついて叫んでいた。パニックを起こした別の男が、錆びついた緊急遮断レバーに両手でぶら下がり、強引に引き倒そうとしている。
ルカは走り込みざま、その男の作業着の襟ぐりを掴んで横の隔壁へ叩きつけた。
「触るな。そのバルブをいま塞いでみろ、背後の高圧ラインの逃げ場がなくなって、この通路ごと俺たちが挽き肉になる」
「ひっ……だが、家畜が、俺たちの食料が全滅するんだぞ!」
「家畜の心配をする前に、自分の足元を見ろ」
ルカは腰の工具帯からゴツゴツとした粗悪なスパナを引き抜き、作業員の爪先が踏んでいる床板のボルトを激しく殴りつけた。カン、と乾いた打撃音が響き、歪んだ床板から錆の粉が弾け飛ぶ。
「フレームにかかる荷重が偏ってる。船体が左に3度傾き、この区画全体がジャンプの残留応力を一手で受けてるんだ。マニュアル通りの緊急遮断なんてやれば、過荷重でフレームごとこのブロックが引きちぎれる」
ルカは膝をつき、油で粘りつく鉄板の上に直接耳を押し当てた。
雑音の奥から聞こえるのは、船体の悲鳴だ。十世紀分のツギハギと、繰り返されたワームホール跳躍の疲労。10000トン単位の鋼鉄が物理的限界を迎えてキシキシと泣いている。先人たちから口伝で叩き込まれた勘と、足裏から伝わる振動の周波数が、ルカの脳内で即座に構造図として組み上がっていく。
「クラックの位置はここじゃない。奥の第4結合部だ」
ルカは立ち上がり、皮製アームカバーの締め紐を噛んで固く結び直した。首元のアナライザーが狂ったような警告音を一定周期で刻み始める。この泥船の底で、本物の星空を見たこともない。頭上で軋む鉄の悲鳴だけが、幼少期からルカにとって世界が生きていることを示す唯一の音だった。
「おい、どこへ行くんだルカ! まだ液漏れが止まってないぞ!」
「死にたくなければ、そこで祈ってろ。神様にじゃなく、この船のポンコツな接合ボルトにな」
ルカは足元から舞い上がる鉄粉と排泄物の臭いを切り裂き、さらに薄暗く狭い高圧配管通路の奥へと走り出した。
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最下層の奥深く、高圧プラズマ配線と主構造フレームが剥き出しになった接合ブロックは、すでに青白い火花と有毒ガスで満たされていた。
「ルカ! 遅いぞ何をやっていた!」
作業用足場の上で、油に濡れた作業服を着た現場監督が怒鳴り散らしていた。その手には分厚い電子マニュアル端末が握られているが、画面はエラー表示の赤光を点滅させているだけだった。
「第4接合フレームのクラック(亀裂)が止まらん! 管理層へ報告がいけば俺は更迭だ! 正規の交換フレームを持ってきて補強手順に従え! マニュアルの112ページには――」
「その厚いマニュアルがこのきしみを止めてくれるなら、今すぐ持ってきてくれ」
ルカは足場へ跳び乗り、溶接カッターのスイッチを親指で弾いた。青白いプラズマの火花がバチバチと弾け、暗闇を激しく照らし出す。
「油で汚れた手を拭く雑巾くらいには使ってやる」
「な、なんだと! マニュアルを無視して修理する気か! 予備の構造フレームは上層の資材庫だぞ!」
「上層から資材が降りてくる頃には、俺たちは宇宙ゴミの仲間入りだ」
ルカは現場監督の胸元を突き飛ばして退かせ、壁面の剥き出しになった巨大な接合ボルトを睨みつけた。直径三十センチはある異種金属のボルトが、歪みによって悲鳴を上げ、表面の塗料が熱でベリベリと剥がれ落ちている。クラックはそこからフレームの背骨に向かって爪痕のように伸びていた。
正規のパーツなど、この泥船の最下層には存在しない。あるのは転がっているジャンクの鉄板と、打ち捨てられた旧式配管だけだ。
「安心しろ、このボルトが跳ね飛ぶ時は一瞬だ」
ルカは足元のジャンク山から、青い塗装が剥げかけた高圧油圧パイプを引き抜くと、プラズマカッターで容赦なく二つに切断した。激しい熱風と焦げた金属の臭いが鼻腔を突く。
「痛みを感じる暇もなく肉片になるんだから、そんなに青ざめるな」
「狂ってる……! そんな異物のパイプを構造フレームに溶接する規定なんてどこにも――」
「理論は知らん。だが、この青いパイプをバイパスとしてここに繋ぐと、フレームにかかる荷重が隣の補助桁へ逃げる」
ルカは言いきり、熱を帯びた鉄板に手を当てた。手のひらを通して伝わる「力の流れ」を感じ取る。物理学の数式ではない。何千時間もこの船の不快な振動を身体で受け止め続けて培った、泥臭い感触のリアリズムだ。
「シールド面を下げろ!」
ルカは叫ぶと同時に、バイパスパイプをクラックの直上に押し当て、高出力のプラズマ溶接機を叩きつけた。
猛烈な眩光と火花が狭い通路に吹き荒れる。皮製アームカバーに飛び散る溶接の火花が、バチバチと音を立てて焦げた皮の匂いを撒き散らした。プラズマの熱で塗料と油が蒸発し、目を開けていられないほどの煙が充満する。
ルカは汗と脂で汚れた顔を歪めず、アナライザーの数値を横目で追いながら、力技で異種金属のパイプを構造フレームへ圧着・結合させていった。
「くそっ、溶接圧力が足りない……! 動け、繋がれ!」
ルカはカッターの出力を限界まで引き上げ、シームレスな溶接痕を強引に刻み込む。手工具から伝わる強烈な反動が、ルカの腕の筋肉を痙攣させた。
ガツン、と船体全体が大きく揺れ、一瞬だけ重力が跳ね上がった。現場監督が悲鳴を上げて足場に倒れ込む。
しかし、その直後。
耳を刺すようだった主構造フレームの擦れ合う金属性の悲鳴が、ふっと小さくなった。
ルカは吐き捨てるように息を吐き出し、プラズマカッターの火を消した。首元のアナライザーの画面を見る。危険を示す赤波形が沈静化し、黄色の警告表示へと推移していた。
「……止まったか?」現場監督が恐る恐る顔を上げる。
「応急処置だ。あと三回のワームホールジャンプには耐える。……それ以上は保証しない」
ルカは耐熱グローブを外し、手垢と油で汚れた皮製アームカバーで額の黒い汗を拭った。バイパス接続された青いパイプは、赤熱した熱を帯びながら、不気味に、だが確かに船体の悲鳴を食い止めていた。




