淫靡なる神の散り際と、気高き真紅の処刑
色欲の神が座する『快楽の宮殿』は、外の街以上に悍ましい光景が広がっていた。
豪奢な大理石の床には、全裸で絡み合う男女が絨毯のように敷き詰められ、宮殿全体がドロドロに溶けた甘い毒香で満たされている。
「止まれッ! 色欲の神様の御前だぞ!」
宮殿の奥へと進む私たちの前に、目を血走らせた数百人の近衛兵たちが立ち塞がった。
彼らもまた、色欲の魔法によって理性を焼き切られ、痛みすら快楽に変換してしまう狂戦士と化している。
「カノン様、あのような汚らわしい連中の血で、主のドレスを汚すわけにはいきません。私たちが道を切り開きます!」
「うん。カノンの視界に入るゴミは、私がぜんぶ切り刻むから」
大盾を構えたセラフィと、双剣を抜いたミアが前に出る。
そして、昨夜の眷属化で完全に『カノン至上主義』に染まりきった赤髪の竜――レヴィアが、嬉しそうに前に飛び出した。
「えへへっ、私が一番いっぱい倒したら、カノン、またいっぱいいいこいこしてねっ!」
レヴィアは無邪気に笑うと、深紅の髪を揺らし、大きく息を吸い込んだ。
次の瞬間。
「カノンの邪魔するやつは、ぜーんぶ丸焼きになっちゃえー!!」
ゴォォォォォォォォッ!!
レヴィアの口から放たれた、星をも溶かすほどの圧倒的な『竜のブレス(灼熱の炎)』。
神聖な魔力を帯びたその業火は、近衛兵たちはおろか、宮殿の分厚い壁や黄金の柱ごと、すべてを一直線に灰燼に帰してしまった。
「……あきれた。相変わらず規格外ね。でも、いい子」
「えへへっ♡ カノンに褒められたっ!」
尻尾を振るように戻ってきたレヴィアの頭を撫でながら、私は炎の跡を悠然と歩き、宮殿の最深部――『玉座の間』へと足を踏み入れた。
『――あらあら。随分と野蛮な客が来たものねぇ』
巨大な天蓋付きのベッドのような玉座。
そこに、薄絹一枚を纏った、息を呑むほど妖艶な女が横たわっていた。
ねっとりとした視線、周囲の空気を歪めるほどの濃密な甘い香り。あれが、母を侮辱した『色欲の神』だ。
「あなたが色欲ね。……直接見ると、念話以上に下品な顔をしているわ」
『ふふっ、生意気な口を利くのね、お姫様。傲慢に殺されたあの下劣な母親そっくり。顔だけはいいけれど、中身は空っぽの出来損ない……』
ピキッ。
私の背後にいた三人のヒロインから、どす黒い殺気が爆発した。
「……貴様、今、カノン様をなんと言った?」
「ぶっ殺す。その汚い舌、千切ってミンチにしてやる」
「カノンのこと馬鹿にするやつは、生きたまま噛み砕く」
セラフィ、ミア、レヴィア。
三人の放つ純度100%の狂信と殺意に、色欲の神は少しだけ顔をしかめた。
『ウザい羽虫どもね。……私の宮殿で、私に逆らえるとでも思っているの?』
色欲の神が指を鳴らすと、宮殿内の毒香が何十倍にも濃縮され、ピンク色の霧となって私たちを包み込んだ。
『私の能力の最大出力よ。さあ、理性を捨てて獣のように発情しなさい。その忌々しい吸血鬼を、お前たちのその手で犯し、喰い殺して……』
――しかし。
三人のヒロインは、顔色一つ変えずに色欲の神を氷のように冷たい目で見下ろしていた。
『……な、なぜ? なぜ私のご褒美が効かないの!?』
「……お前のような安っぽい快楽と、カノン様が与えてくださった至高の血の絆を一緒にするな、下劣な豚が」
セラフィが吐き捨てるように言い放つ。
彼女たちの魂の奥底には、昨夜私が直接刻み込んだ『絶対の盟約(重すぎる愛)』がある。色欲の神がバラ撒く薄っぺらい快楽の霧など、彼女たちからすればただの生ゴミの悪臭に等しかった。
「さて、茶番は終わりよ」
私はゆっくりと一歩前へ出た。
右手の親指を犬歯で噛み切り、溢れ出した血が、巨大な『真紅の大鎌』へと形を変える。
「あッ……!? ま、待ちなさい! 私を殺せば、天界の神々が黙って……」
「黙るのはあなたよ。母の足元にも及ばない、下品な神様」
ヒュンッ。
私が大鎌を一閃した瞬間。
色欲の神の美しい顔は驚愕に歪んだまま、その首が胴体から滑り落ちた。
『ガ……アァァ……ァ……』
首だけになっても何かしようと口をパクパクさせている色欲の神。
私はその顔を、容赦なくヒールの踵で踏み砕いた。
グシャリ。
「……私の前で、母を愚弄した罪。その命で贖いなさい」
私の神聖な魔力が大鎌から奔流となって流れ込み、色欲の神の肉体を細胞一つ残さず浄化し、完全に消滅させた。
街を覆っていた甘ったるい毒香が晴れ、空を覆っていた薄紫色の雲が消え去り、澄んだ青空が顔を覗かせる。
私たちは崩れゆく宮殿を後にし、再び街の大通りへと戻ってきた。
しかし、そこに以前の『子宝に恵まれた幸せな国』の面影はなかった。
「……あぁ、気持ちいい夢が終わっちゃった……」
「なんで、なんであの魔法を消したんだ! あんなに幸せだったのに!」
色欲の魔法が解け、正気を取り戻した大人たちは、急な虚無感に襲われて道端にへたり込んでいた。
彼らは神の支配から解放されたというのに、快楽に依存しきっていた脳は現状を受け入れられず、その恨みがましい視線を私たちへと向けてきた。
「お前らが余計なことをしたからだ! あんなに気持ちの良い日々だったのに!」
「この疫病神め! 出て行け!」
彼らから向けられるのは、感謝ではなく、憎悪と罵声だった。
「……貴様ら。主がこの狂った街を浄化してくださったというのに、そのふざけた口、二度と叩けないようにしてやろうか」
「ほんとムカつく。あの豚ども、ぜんぶ燃やしちゃっていい、カノン?」
セラフィが殺気を放ち、レヴィアが喉の奥で炎を燻らせる。
だが、私は二人を手で制した。
「やめなさい。快楽に脳が溶けた豚に、空の美しさを説いても無駄よ。理解など最初から求めていないわ」
私は冷たい視線で大人たちを一瞥し、歩き出そうとした。
その時だった。
「……おねえちゃん」
路地裏の影から、小さな声が聞こえた。
見ると、みすぼらしい服を着た数人の子どもたちが、身を寄せ合うようにしてこちらを見つめていた。
彼らは、狂乱する大人たちに育児放棄され、あるいは娼館の慰み者として売られる寸前だった子どもたちだ。魔法が解けたことで、ようやくその地獄から解放されたのだ。
子どもたちは怯えながらも、その澄んだ瞳に安堵の涙を浮かべ、私に向かって小さく、けれど確かに頭を下げた。
「……ありがとう」
その言葉は、罵声にかき消されるほど小さかった。
でも、私の耳にはしっかりと届いていた。
「……そう。なら、せいぜい強く生きなさい」
私は誰に言うともなく小さく呟き、ふっと優しく口角を上げた。
「カノン様?」
「何でもないわ。……行くわよ。こんな薄汚れた街に長居する理由もないし、一度街を出て、少しゆっくり休むとしましょうか」
私がそう言うと、三人の眷属たちがパァァッと顔を輝かせた。
「主の休息! では、私が極上のベッドメイキングと、疲れを癒やす全身マッサージを……!」
「抜け駆け禁止、羽なし天使。カノンの隣で一緒に寝るのは私だから」
「えー! 私、戦ったらまたお腹すいちゃった! カノン、おいしいご飯ちょうだい!」
私の両腕と背中に、それぞれが我先にと抱きついてマウントを取り合い始める。
「……はぁ。ちっとも休めそうにないわね」
私は呆れたようにため息をつきながらも、すり寄ってくる三人の頭を順番に撫でてやった。
神を一柱惨殺し、狂乱の街を壊した直後だというのに、私の周りだけはいつも通り騒がしい。
肝心の『母を殺した神』が誰なのか、どこにいるのかはまだ分からない。次なる標的と目的地を探すための情報収集と、騒がしくも甘美な私たちの日常が、また幕を開けるのだった。




