8 聖女を追った国
ラデン王国の北から東にかけて広がるバール帝国。その中央に位置するのが皇都べスラムだ。
「やっと、厄介払い出来た。そして私もようやく次に進める」
皇太子デスモンドは呟く。
婚約者である元聖女エストを破談、追放してから既に10日が経過している。
今は私室から父の政務を補助するための執務室へと向かう、皇城の廊下を歩いているところだ。赤い布張りの床にも木目の壁がよく合っていた。
「殿下っ!」
可愛らしい、新たな婚約者が廊下の曲がり角から現れる。
そのまま自分に飛びついてきたので、デスモンドはそっと受け止め、そして抱き締めた。
「アニス、どうしたんだい?」
愛おしさのままデスモンドは耳元で囁く。くすぐったそうにアニスが腕の中で身動ぐ。
「私たちの婚約が、陛下に認められた、と。そう耳にして」
頬を赤らめてアニスが答える。
かつてはアニスの異母姉エストと婚約していたのだが。つい10日前、婚約を破棄して国からも追放してやったのである。
淡い若草色の髪をした、大人しい印象のアニスに対し、どこまでも厚かましくて、やかましい桃色の頭がエストであった。
「あぁ、あの口だけ聖女のエストをようやく追うことが出来たからね。しかし、貴族の根回しや手続きに時間を要してしまったよ」
恥ずかしげに身を離すアニスにデスモンドは告げた。本当はあまりアニスの前でエストを謗ることは出来ない。唯一、不機嫌になる話題なのだ。
現に少し表情を曇らせている。
(しかし、本当に、我慢ならなかったからな)
エストの数々の所業を思い出すにつけてデスモンドは苛立つのであった。最後にはとうとう、戦場に突っ込んでいって、彼女を助けるために兵士たちが負傷したのである。
「えぇ、お姉様、どうしてるかしら」
どこまでも心優しいアニスが顔を曇らせる。
「彼女なら、どこででもあの調子だろうさ」
婚約していた数年間の苛立ちを思い出し、デスモンドは吐き捨てる。
何を言っても、どう説得しようとも聞き入れない女性だった。気が強く口が減らない。馬にも乗れないくせに生意気なのだ。
「えぇ、だから心配で。無茶をしていないといいのだけど」
アニスが首を傾げて言う。悩ましげな仕草がひどく可愛らしいのであった。
(無茶はしているだろうね。ただし、この国の外で、だよ)
デスモンドはようやくエストの不始末を他人事と思えるようになったのだった。
「ティスも大丈夫かしら?ずっとお姉様付きだったから。結局、忠義な人だから、ついて行ってしまったけど」
アニスの左手には大きな傷痕が残っている。式典などのときには白い手袋などで隠すことも多い。
ティスというのは、元婚約者エスト専属の侍女だ。デスモンドも顔は覚えている。いつもエストに振り回されている気の毒な女性、という印象だ。
「やめよう、彼女の話は、もう」
とめどない心配を、デスモンドは断ち切るつもりで告げた。
なぜ追放した相手のことまで、いつまでも気にしていなくてはならないのか。
「黒騎士を倒す、だったかな。何度も何度も聞かされて、もううんざりだよ、私は。君も彼女を助けようとして、そんな傷を」
デスモンドはアニスの傷についても言及する。
黒騎士という危険人物の召喚した魔獣にエストが突撃した。そこを助けようとした妹のアニスが負傷したのである。
もう3年ほど前のことだ。
「殿下には、私のようなキズモノを拾って頂いて、本当にありがとうございます」
アニスが、ハッとして頭を下げる。
「そんなことを言わせたくて、私は言ったのではないよ」
デスモンドは苦笑いだ。姉のエスト同様、アニスも公爵令嬢であり、家格は申し分ない。
負傷の有無など些細なことであり、人柄や能力が評価されてアニスを婚約者と出来たのである。
「はい。ありがとうございます」
アニスが俯く。
エストの母であった大聖女を妻としていたのが、現エルニス公爵だ。大聖女に先立たれた公爵が後妻を迎えた。その連れ子がアニスである。
(義母となる現公爵夫人もアニスも優しいからな)
必ずしもエストとこの新たな家族たちとは、仲は険悪ではなかったらしい。ただ聖女であった母のようでありたいと、実力もないくせに動き回るエストを家族も、婚約者である自分も持て余していた格好だ。
(二言目には黒騎士を倒すと。魔獣を自分が倒すと言って憚らなかった。大した実力も無いくせに)
次第に苛立ちと怒りがデスモンドの中を支配するようになった。
どんなに美しく可憐な容姿をしていても、考え方や言動が愚かで醜悪なものに思えては愛せるわけもない。
『黒騎士』というのは魔獣を操り、人々に害をなす人物だ。ここ数カ年に渡って各地に被害をもたらしている。
当然、バール帝国としても捕らえようとするのだが、これまでのところは逃げられ続けてきた。
「殿下っ!」
ガチャガチャと音を立てて、白銀の鎧を身に纏う騎士が姿を見せた。
「アーノルドッ!」
手を挙げてデスモンドは応じる。
(そもそもこの国にはアーノルドがいる)
デスモンドの隣にアニスが並び、そっと頭を下げた。
黒騎士による破壊行為を何度となく撃退してきた人物だ。強力なバール帝国の騎士団にあって、その若手の筆頭騎士なのであった。
赤い髪に落ち着いた茶色い瞳。一見、細身だが鍛え上げられた屈強な肉体を持つ。
「また、魔獣です。東のデルムンド地区に、砂を吐き散らす大蛇が出たと、物見から報告が。黒騎士の目撃は無いそうですが」
アーノルドが報告してくる。
討伐のために皇城を空けると言いたいのだろう。
「またか。最近、多いな。まさか黒騎士が力を増したのか?」
昨日もそんな話があったばかりだ。
姿が見えないから黒騎士が関与していないとは限らない。魔獣襲来となれば、真っ先に頭に浮かぶのが黒騎士なのであった。
「と、いうより、魔獣そのものが活発になっているようにも感じます。見えない汚れが増したかのような、そんな感じなのです」
首を傾げてアーノルドが告げる。
「お姉様を追放したせいでしょうか。何か見えない作用で、姉もこの国を守ってくれていたのでは?」
不安げにアニスが尋ねてくる。
「そんなわけはないさ」
考えすぎだ。デスモンドは婚約者の考えを一蹴する。
「アーノルド、ここの、私の警護を気にしているなら、その必要はない。民よりも優先することなどない。すぐにでもその魔獣をいつもどおり、叩き斬ってくれたまえ」
確かにエストを追放してから魔獣襲来案件が増えた気もする。
ちらりとよぎる不吉な考えを押し込めて、デスモンドは告げるのであった。




