第五話 精霊が降る聖夜(8)
シモンのヴァチカンへの帰還は延期になった。というより、どうも無期限で日本に滞在することになったらしい。
事情はよくわからない。
シモンは、部屋が見つかるまで、キョージュの家に居候することになった。
私はというと、賀茂萬山さんに泣きつかれて、キョージュの食事の面倒を見ることになった。術師会から貰っている月額とほぼ同額の手当てに、食費は使い放題だというので、断る理由を思いつくのが難しかったのだ。とりあえず手当ての三ヶ月分を前払いにしてもらって、借金は返せた。
変形7畳の私の部屋をいっぱいにしていた52インチテレビは、しょうがないので、キョージュの家のリビングに運ばせた。リビングに据え付けてみたら、部屋が広いせいか思ったより迫力にかける、悔しくなって65インチのものに替えた。差額はキョージュが払った。
第42回紅白歌合戦のハイビジョン映像を堪能していると、シモンがやってきて尋ねた。
「コノヒト、ダレ?」
「八代亜紀」
「ヤシロ、アキ」
「そう」
「コノヒトモ、アキさん」
「うん、そうだよ」
「ウタ、ウマイネー」
「でしょ、でしょ。私、この人大好きなの」
「ウタ、ナニ?」
「何?」
「ナニトイウ、ウタデスカ?」
「ああ、舟唄だよ」
「フナ、ウタ、サカナ、ウタデス」
「違う違う、フネ、シップのうた、シップソング」
「オオゥ、シップ、フネ、シップソング、イイウタネ」
「でしょ、でもね、これ二回目なの、紅白で歌ったのは、最初に紅白で聞いたのはもっとよかったな」
「ニカイメ、コウハク?」
「あ、ごめんごめん、難しかったね。でもNHKホールで生で聞いたんだ、紅白のオオトリでね。あ、これもわからないか。父さんと行ったんだ、とっても楽しかった」
「アキハさん、トウサン、ウタスキ」
「そうそう、トウサンと一緒に聞いたの、この人の歌。とっても楽しかった」
「トウサントイッショ、ヨカッタデスネ」
「うん、とても楽しかった」NHKホールのずっと奥の席で、歌手の人の顔なんかよくわからないくらいだったけど、あの時は、本当に楽しかった。隣には父さんがいて、舟唄を一緒に聞いてたんだ。
「アキさんエライネ」
「偉いでしょ、アキさん、素敵よね」
「チガウ、アキさん、エライ、アキハさん」
「え? 私?」突然何だろう、シモンは意外に真剣な面持ちだ。
「ぱらでぃそトウサン、アキハさんエライ、イッタ」
「え? シモンのお養父さんが…、まあ、うれしいけど…、私、そんなに偉くないよ。誤解だよ」
「チガウ、ニセモノトウサン、チガウ、ぱらでぃそトウサン」
「え? お養父さん天国行ったんでしょ。ぱらでぃそ」
うーん、とシモンは唸ってしまった。どうも話が通じていないらしい。
「ぱらでぃそトウサン。サンニンイッショ。ワカラナイ?」
左右に手を広げてワカラナイのポーズをしてみせる。シモンはそれでもいろいろ言ってくるが、どうもよくわからない。
「ア、ハルヒコ、キタ。オーイ、ハルヒコ」
二階から降りてきたキョージュに駆け寄って、イタリア語で話しだした。キョージュはちらちらこっちに視線を向ける。どうやらキョージュも困っているみたいだ。
しだいに興奮してくるシモンを宥めて、椅子に座らせると、キョージュがこっちにやってきた。コホンとひとつ咳払いをして、小声で話しはじめる。
「あの…、この間の件なんですが…」
「この間、って?」
「シモンのお養父さん呼んだとき」
「ああ」
「何かありました?」
何かあったなんてもんじゃないよ、コノヤロウ。と思ったが、よく考えたらキョージュにはアレは見えないのだった。
「タモンさんにでも聞いたほうが早いんじゃないですか?」
「いや、もう聞きましたけど、最後のところが良くわからなかったらしいんですよ。シモンもそこのところにこだわってるみたいで…」
「最後って?」キョージュに問うた。私だって、よくわからない。
「何でも光の球がアキハさんと話してた、って言うんだけど」
「ああ」やっと合点がいった「あのこと」
「やっぱり何かあったんですね」
「たいしたことじゃないですよ」実際、たいしたことじゃないし「お目にかかれてうれしい、って言われたから、こちらこそ、って返事しただけです」
え? と言ったきりキョージュが絶句した。しばらく何事かを反芻していたが、シモンを気遣いながら声を潜めて問うてきた
「あの、アキハさん、って、古代ヘブライ語とか、どこかで習ったことあります?」
「何、わけのわからないこと言ってるんですか? 頭大丈夫?」
「やっぱり…」キョージュは眉間に皺を寄せて、再度問うた「じゃあ、その、お目にかかれて云々、っていうの日本語だったんですね」
「当たり前じゃないですか」
「…わかりました」キョージュはがっくりと肩を落とした「だいたいの事情はわかりました。あの、お願いなんですけど…、いまの話、シモンにはしないでくださいね。シモンには僕から適当に言っておきますから」
「あの…、全然、意味わからないんですけど?」
キョージュはちょっとだけ困った顔をした「説明して欲しいですか?」
もちろん、と言いかけて、これはかなりヤバいのかも、と思い直した。たぶん、キョージュの口ぶりからすると、ここで説明さえ聞かなければ私は何かを知らんぷりできるのだ。
「…聞きたくないです」
「どうもありがとう」キョージュはそう言ってシモンのほうに戻ろうとしたが、何か思いついたらしく、もう一度問うてきた「たびたびすいません、さっきの光る球が言ったこと、できるだけ正確に話して貰えます?」
「お目にかかれて光栄です、です」
はあ、とキョージュはため息をついて、それから、ありがとう、と言い残し、シモンのほうに歩いていった。
キョージュとシモンがその後、何を話したのかは知らない。
シモンの私に対する態度はもともと非常に丁重だったのだが、その日を境に丁寧を通り越して、ときどき辟易する程になった、実際、その翌日、シモンは私を命をかけて守る、と宣言したのだが、そのときのシモンの表情は、冗談かなにかで言っているようには見えなかった。
<精霊の降る聖夜 − 了>