じゅうに葛
エストリフス王国への研修旅行出発が三日前に差し迫った二月末日、私は目の下に黒々としたグリズリー二体を居住させて大学の吉田ゼミ研究室で緊張を露わに直立していた。目の前には私の所属する吉田ゼミの主、吉田隆彦教授御歳六十八歳が柔和な顔に小さな丸眼鏡をかけてデスクに座している。その手にあるのは私が一月の末に提出し受理された卒業論文、の、やり直しを命じられ一週間かけてやっと書き上げた卒業論文・改であった。なぜ書き直さなければならないはめに陥ったのかと言えばそれこそ深爪より深くいかがわしいことを考えている我が鼻の下よりも長い言い訳が存在するが、簡潔に結論だけを言えば教授の「これは卒論ではない」という哀しき断定によるものであった。
先週の事だ。卒業を控え少なくなった講義を終えて暇をもて余した私がおやつ片手に研究室へ顔を出すと、その主たる吉田教授が生徒の卒論を前に難しい顔で唸っていた。生徒から「限りなく地蔵っぽいが一歩間違うと妖怪」とまで言われる柔和で有名な吉田教授のそんな顔が珍しく、これは暇潰しにもってこいだと断定した私は鼻を膨らませて喜び、呑気に「あれ教授、どうしたんですかお菓子食べますか」とヘラヘラしながら裂きイカを差し出した。教授は「斎藤くんにとって裂きイカってお菓子なの?これつまみじゃないの?」と言いつつも私の手から受け取ってイカを口に放り、ため息混じりにどうやらそんな顔をするに至った原因らしいものをぱさりと机に置いた。そこで何を見てそんな愉快な顔をしているのかとニヤニヤ視線を投げた私が見たものは、見紛う事なき我が提出した卒論、その名も「イポメア・ニルの成り立ちとその育成における日乗」であった。
一見小難しいタイトルで論文として悪くなさそうなこの卒論、タイトル全て一般的な言葉に言い換えれば「朝顔観察日記」になる。勿論メンデルの法則だの何か特別な発見が記されているわけもなく、内容は小学生の夏休み自由研究と一切変わらない単なる朝顔の成長記録である。当然卒論として成り立っていないし教授が採点できようはずもない。何でテーマを決めたあの時私は卒論としてこれでいけると思ったのか、そもそも国文科であるというのに何故研究対象に植物を選んだのか、己の所業であるのにその一切が解せない。斉藤君これ点数がつけられないんだけどどうしたらいいかなと呻いた教授に私が言えた言葉は、ごめんなさいやり直しますというものだけだった。
直立不動で口をすぼめる私の前で吉田教授が最後のページをパラリとめくった。うなぎのぼりに上がっていた私の血圧はまた一度上昇し、顔中びっしりと脂汗が浮き出ている。鏡がないので己の様相は知りようもないが、緊張のあまり限りなく今流行りの人っぽい別の何か即ち人外になりかけている気がする。そういえば研究室に辿り着くまでの道程ですれ違った全ての人間が私と目が合うなり悲鳴を上げて逃げて行ったが、電車から降りた際に反対側のホームから「おかあさん見てゴブリンがいる!本当にこん棒持ってる!」とちびっ子が興奮気味に叫んでいたあれは、もしかすると私を指しての発言だったのだろうか。思えば今日は朝の星座占いで獅子座のラッキーカラーが銀色であると知り、玄関先で見つけた婆さんの鉛色の杖を後生大事に握り締めて持ち歩いていた。もしこれをこん棒と見たのならちびっ子の言うゴブリンとはどう考えても私である。人気の人外枠からはぶっちぎりで圏外だ。巷で人気の人外とはゴム人間や獣人系、そうでなくとも容姿に可愛らしさが常備してある生命体であって、決して人から悲鳴を上げられるようなモンスターではない。
「―――斉藤君」
「は、はい!」
ぱさりと卒論をデスクに置いた吉田教授が顔を上げ、私は緊張でびくりと一瞬分裂した。ぎょっとした教授が目を擦るのを他所に私は内心で今こそあの合言葉、ガンガン行こうぜを唱える時だと内心で叫び続きを待った。気分はラスボスたる魔王に全裸で挑んだ村人Fである。勇者ですらないのに何故挑んだのか、しかもどうしてブリーフの一枚も着用しなかったのか理解に苦しむ。
「え―――ええと、卒論より今の現象に突っ込みたい気もするけど…まぁいつもの事だからおいとくとして」
首をかしげながら教授が言い、私はごくりと生唾を飲み込んだ。ふ、と柔和な顔に笑みが浮かぶ。
「ま、卒論はこれでいいでしょう。合格です、卒業させてあげる」
お疲れ様でした、と肩をすくめて教授が片目を瞑った。私は一瞬何を言われたのか解らず、呆然として硬直した。今なんと言った。合格。合格?全裸の村人Fは本当はエクスカリバーを持っていた?だとしたら村人はエクスカリバーをどこに隠していたのか、まさか股間自体が――――いいや今私が注目すべき箇所はそこではない。
「ほっ」
「ほ?」
「―――ほんとうですか教授!合格!合格ですか!やった、やったあああああげえええ」
「ははは、そんな床に這いつくばって喜ばなくてもってうわああああ!!」
「げええええええっ」
「何で!?何で吐いてんの斉藤君ー!!」
合格という言葉を聞いた瞬間、私は拳を振り上げ床にしゃがみこみ、満面の笑みで快哉を叫び同時に口から何かを出した。予想外の嘔吐に思わず呼吸が止まりびちびち動く私に、吉田教授が慌てて立ち上がって駆け寄る。
「さ、斉藤君大丈夫!?それ何なの、何食べたらそんなの出るの!?」
「こ、これはあの、朝飲んだみそ汁です」
「みそしる!?半透明なスライム状がみそしる!?違うんじゃない!?それスピリチュアリティなアレじゃない!?」
「いえあの、これはそう、エクトみそ汁です」
「エクトみそ汁!?」
何それ!と柔和さの一切がかき消えた吉田教授が真っ青な顔でぶるぶるしているのを落ち着かせ、私は極度の緊張から解放された安堵に大きな溜め息をつきまた口から出た何かを飲み込んだ。完全に目を剥いた吉田教授を見ない振りして危機を乗り切った己に拍手を送り、卒論がかくも恐ろしいものであったとはと苦い思いで首を振る。そう、本当に大変だった。卒論テーマを決めた二学年初期の己を今物凄くぼこぼこにしたい。過去の己に私はぎちぎちと歯噛みして悔やみ、吉田教授にやり直しさせてくれた礼を述べ深々と頭を下げると、我に返ったらしい吉田教授が「いいよいいよ、斉藤君もよく一週間で頑張ったねぇ」と苦笑交じりにデスクに座り頷いた。
「それじゃこの"平安時代における染色と位の関連性"の方を正式に卒論として預かるけど、観察日記はどうする?僕の方で保管しておこうか?」
「あの、観察日記で間違いないんですけど正式タイトルで言ってもらえないですか。―――えっと、それは持って帰ります。万が一後輩となる誰かがこれを見つけ卒論ってこんなんでいいんだと勘違いしちゃいけませんし」
「斉藤君みたいな生徒ってそうそういないから大丈夫だとは思うけど、それならはい、持って帰りなさい」
にこやかに笑う吉田教授の言葉に若干引っかかりながらも受け取り、私は失敗作となった卒論をちらりとも見ずに雑に鞄に放り込んだ。菓子や漫画に挟まり卒論がぐしゃりと潰れる音がしたが、全くもって構わない。むしろ消えてなくなればいいと思う。
「それでは教授、私はこれで失礼します。ありがとうございました」
「うんどういたしまして。―――あ、ちょっと待って斉藤君」
研究室を出ようとしたところで呼び止められ、振り向くと教授が薄紫色の封筒を手にして手招きしていた。何かそれどっかで見たなと首をひねりながら側によると、封筒から書類を取り出し机に並べる。
「これね、君の内定した職場から先週届いたんだけど。読んでみたら三日後から一ヶ月間外国で研修するって書いてあったから卒業式どうするのかと思って。戻ってくるの?」
「え、一ヶ月?」
「うん」
吉田教授のきょとんとした顔に、私はひたすら驚きばかりを貼り付けて見返した。気味の悪い沈黙が降りる中、ひくりと教授の顔が痙攣した。
「あの、斉藤君」
「はい」
「君、これちゃんと読んだ?」
軽く蒼白な吉田教授に言われ、私は指し示された机上の書類に目を落とした。何と言えばいいだろうか、実はあの日面接から帰宅して一応全部机に並べてみはしたのだが、書類の字が小さかったのとカタカナ表記が多かったので最初の一行と最後の一行だけしか読まなかった。そして間が悪かったと言うかその翌日に卒論のやり直しが決定したため、てきとうに署名して父母へ渡せば二人共最初の一行だけ読んで保証人欄に署名していた。その場に居た弟は最後の一行だけしか読んでいなかった。結果だけ見れば誰も内容を把握していない上に最初と最後の二行しか読んでいない私が一番書類を詳しく見た事になる。常日頃から薄々気付いてはいたが、どうしたものか、斉藤家には慎重な人間が一人も居ない事がこれで確実になった。
「さ、さいとうくん」
私の無言に事実を嗅ぎ取ってしまったらしく、教授が今度は蒼白を通り越して真っ白な顔で身を乗り出した。
「あの、じゃあパスポートは?ちゃんともう持ってるよね?三日後だもんね?」
「あ、はい、それはもちろん。いつでも申請できます」
「ああそれならよかっ…申請?」
吉田教授の言葉にやっと自信を持って答えられる質問がきたと私は胸をはって親指を立てた。しかし確かな自信を漲らせる私に質問した当の本人は安堵も余裕も顔から消し去り、やや瞳孔の開いた目で硬直した。
「…申請?斉藤君、今、今申請って言った?」
「はい、本当ですよ。嘘じゃないですよ」
疑われていると思った私は、教授に嘘ではないと証明するため傍らに置いていた鞄を漁ると呆然としている教授に目当てのものを掲げ見せた。
「ほら見てください、一般旅券発給申請書に戸籍謄本、住民票に免許証に写真―――ほら完璧でしょう。申請もこれで一発ですよ、窓口の職員もむせび泣いて土下座するに違いありません」
と、自信満々に歯を輝かせた私の言葉を聞き終わることなく、吉田教授は白目をむいて昏倒した。
『ばかやろうそりゃ学校の責任者としちゃ気絶したくもなるわ!パスポート発行って通常申請から受領まで一週間かかるんだぜ、今まで何やってたんだよ!』
「し、知らなかったんだ、すぐその場で発行できると思ってたんだ!」
研究室から飛び出して慌てて依子に電話すると、呆れたように喚いた依子が大きな溜め息をついた。新事実発覚にショックを受け、飛び込んだ便所が性別というカテゴリにおいて違っていたが人類というジャンルにおいては同じなのであまり気にせず居座った。奥に髪を金色に脱色したピアスだらけの男が一人利用していたが、目を点にしたまま何も言わないので会釈して平和さをアピールする。先住民と争う気はないのだ、そこらあたりきちんとアピールしておかねばいらぬ争いを生む。
「ど、どうしよう依子。同意書はもう郵送しちゃってるのに!行くっていっといてやっぱ行かないとかとんでもないデレツンじゃん!いや待って、デレツンってか承諾しといて反故にするってそれただの約束守らない人じゃね!?あるある話でたかしはみちこに結婚しようって言ったのに入籍前にごめんできなくなったってたかしがいきなり言って姿を消したその時、彼が結婚詐欺師であった事をみちこは確信したみたいな!」
『落ち着くんだ椋香!もしそうだったとしてもたかしはたかしなりに本当はみちこを愛していたはずだ!しかし彼は実は外国人で入籍する二日前突然ビザが切れた―――本国へ強制送還されたんだよ!考えろ、たかしがみちこと一緒になるためにはどうしたらいい?そう、もう一度ビザを発行すればいい!』
「たかし!そうその本名はタカスィンヌ!そうだ、パスポートの偽造があった!」
『ばかやろう何で犯罪を選択した!それでタカスィンヌとみちこんヌが本当に幸せになれると思っているのか!!そんなマッシブな愛がお嬢様育ちのみちこんヌに耐えられるとでも―――!』
「うおおおお!タカスィンヌ後悔する事山のごとし!俺に、俺に富と権力さえあれば!絶望したタカスィンヌは部族の族長に直訴し村にある伝説の剣に挑む事を決意した!やぶれかぶれなタカスィンヌ、滂沱の涙で挑んだ伝説の剣を、ぬ、抜いたあああああ!」
『勇者タカスィンヌ、ここに誕生――――!!』
と、携帯握って男子便所で号泣する私の横を、ひどく蒼い顔をしたピアスだらけの青年が足早に通り過ぎた。我に返ってぴたりと口をつぐんで沈黙した私に電話の向こうで依子も沈黙し、依子の背後で杉田くん仕事しなさいと聞こえた。咳払いの後依子が「王子にメールで聞いたらいいんじゃない」と言ったのでそうだねその手があったと頷いて通話を終えた。何の身にもならない電話だった。
その後メル友となっていた王子にタカスィンヌとみちこんヌの事情を話しどうしたらいいものかとメールしてみれば、その日の夜に返信があった。
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Re:偽造
OK ,No problem.
ひこうきじょうむかえいきます,ので りょうかさん ちかく えきのいえ でんしゃする しんぱいいりません:)
I'm looking forward to see you again.
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よく意味が解らなかったが、家族に見せて全員で話し合った結果、つまりは何か大丈夫ということだろうと解釈しサンキューと返事をしておいた。
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「いいか椋香、変な人に付いていくなよ。例えどんな美味そうな食い物をチラつかされても付いていってはいかん。外人はとても怖いからな、そのままとっつかまってバラされて臓器売買とか冗談じゃないぞ。どうしようもなければ唾を吐いてストマックエイクと叫びなさい。良く解らないがたぶん外国のおまじないみたいなものだと思う、言えば相手がひるむらしい。逃げてもじりじりと追いかけてくるすごいのとかが居るかもしれないが、その時はあれだ、ノーミンチノーミンチと叫びながら走って逃げなさい。食卓を囲む側でなく食卓に並ぶ側になっては目も当てられない」
卒論再提出から三日後、暗雲立ち込める空の下地元の閑散とした最寄り駅で私はおとんにこんこんと注意事項を言い含められていた。さすがは我が父親なだけあって外人に対する偏見が似通っている。最初こそうんうんと真面目に聞いていたが、あまりに同じような事を続けるので段々右から左に流し始めた。が、そんなこと気にも留めずおとんは真面目な顔で続け、電車が到着するかんかんという音が流れ出した頃、到底私が聞き流せないような事を言った。
「そしていいか椋香、ナンパには重々気をつけなさい。外人はよくわからないからな、性別が女なら何でもいいっていう物好きもいるんだ。お前みたいな珍奇な妖怪相手でも構わないって輩が」
「珍奇な妖怪!?」
「おっと、電車が来てしまった!さぁ行ってらっしゃい!おやじはおみやげ焼酎がいい」
「ちきしょう!おとんになんか何も買ってきてやらん!」
ばいばーいと呑気に手を振って立ち去ったおやじに怒鳴り、私は電車の中へ向かった。よもや実の父親から珍奇な妖怪呼ばわりされる日が来るとは思わなんだ。変人や変態ならまだしも珍奇。最後の一文字をカ行のアンカーに変えようものなら恐ろしいことになる。危ないところだった、まだ私は生き物でいたい。
ぶつぶつ言いながら電車内に入り込むと、人のまばらな車両に移動して腰を下ろした。荷物は背中に背負ったリュック一つとトラウマとなったドレスの入った紙袋だけだが、リュックにはかなり詰め込んでいるので結構な重量になる。どっしりとした荷物の詰まったリュックと贅肉の詰まった臀部を下ろしてふっと溜め息をつくと、私はポケットから空港までの乗り換えメモを取り出した。自分で調べようと思っていたがあまりに不手際が目立つ私に不安になったらしく、前日に依子からメールが届き、そこにはこの通りに寄り道せず行けお土産は名物菓子がいいと20行の文面に6回も書かれたものが送られてきた。心配してくれるのはとてもありがたいとは思うが、一ミリたりとも私に対する信用が無い事と土産の心配ばかりが見て取れるので素直に喜べない。どうして気をつけて頑張れとかそういった言葉が一言も無いのか、何故「友人<土産」の図式しかそこに見えないのかが理解できない。
皺が寄りそうな眉間を揉んでほぐし、私は気持ちを入れ替えてメモに目を落とした。
「…えーと、あー五つ目の駅で降りて乗り換えか。ん、あれ、空港って地下鉄でいくの?」
「ええ、空港方面と駅に記してあるのできっと行けばすぐに解りますよ」
マジかよ上見ながら歩くのか、こけそうだなと顔を顰め、ついで反対のポケットから菓子パンを取り出した。開けようとしたが良く見ると菓子パンには黒っぽい緑色の斑点がお洒落に飛び散っており、賞味期限を見れば二ヶ月前の日付が記されていた。静かにポケットへ戻し見なかったことにする。さすがにこれを食べて無事でいられる自信はない。
「はーしかし乗り換え多いなぁ。空港とかほとんど行かないからびっくりだ」
「ふふ、個々の連絡はいいんですがね。量が多いですよねぇ」
「うん、こんなに乗り換え頻繁なら駅弁買えな……」
と、そこまで口にして、私はやっと己が誰かと会話をしていた事に気付いた。ぴたりと動きを止め、何故だろう、全身で何か覚えの有る気配を感じ取った気がした。ふわり、とどこかで嗅いだ事が有る、品のいい優しい香りが鼻をくすぐる。
「ああ、確かにそうですね」
―――カイザスの所在は解るか。
ぶわ、と唐突に記憶が全再生された。
マジかよ、と内心で呟いた。この声、この香り。覚えている。
―――ヘイグリーン、俺のカツサンドまだ?
違うこれは言っていない。言っていないが。
「駅弁はちょっと無理だと思いますが、飛行機が長いので機内食を楽しめるかと思いますよ」
顔を上げた私ににっこりと笑いかけた冗談みたいな美形、レイディック王子の姿を目に捉え、私はただあんぐりと口を開いて手に持っていたメモを落とした。