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東部戦線前夜

ベルト公国が同盟側として参戦したのち、その軍事行動は迅速であったといわれる。


戦争というものは、参戦の決断よりも、その後の展開の速さによって真価が問われる。準備の整った国家は、決断と同時に動き出す。公国はまさにその典型であった。


各戦線に兵力は分散投入されたが、その主力はイグニ教国方面へと向けられた。宗教戦争の中核に楔を打ち込む意図であったと後世の軍史家は分析している。


だが、戦争は単一の戦線で決するものではない。


とりわけ、この「ロドリー大陸戦争」のように多国間が絡み合う戦争においては側面、すなわち周辺戦線こそが決定的な意味を持つことがある。


その一つが、東部戦線であった。


小糸率いる第28師団は、この東部戦線へと派遣されることとなる。


この時、小糸はすでに准将であり、形式上は師団長としての地位を得ていた。だが、読者諸氏に理解していただきたいのは、階級と実績は必ずしも一致しないという事実である。


彼にとって、これは師団長として初めての戦争であった。初陣である。


歴史を振り返れば、初陣の将が国家の命運を左右した例は少なくない。ガンダル聖国のナガマサ・アザイの若き日の戦いもまたそうであったといわれる。


だが同時に、初陣は最も危険な瞬間でもある。


経験なき指揮は、時として勇気と無謀の境界を見誤る。


小糸はその境界線の上に立っていた。


東部戦線において、小糸は二つの師団と合流する。


ひとつは、第9師団。


指揮官はネム・ヨバン中将。「緋鯉」として名を馳せた女将軍であり、その戦術的手腕はすでに大陸全土に知られていた。


もうひとつは、第33師団。


こちらはリック・ハウンド少将の指揮する新編師団であった。少将に昇進間もない将でありながら、その粗暴とも言える攻撃性で知られている。


この三師団が、東部戦線の防衛を担うこととなった。


敵はゴイコ民国。資源と資金を背景にした軍備拡張は侮れないものがあった。


さらに重要なのは、その戦略目標である。

イデルローゼ。


ベイル教の聖地であり、公国東部の要衝。宗教的象徴であると同時に、経済的要地でもある。


「奴らは、まだ諦めてねぇ」


作戦室で、参謀の一人が吐き捨てるように言った。


諜報員の報告は明確であった。


民国は、いまだにイデルローゼを狙っている。


これは単なる戦術目標ではない。国家意志そのものである。


「聖地を奪うってのはな、土地を取るのとは違う」


別の参謀が言う。


「信仰ごと奪うってことだ」


この認識は正しい。


宗教と国家が結びついた社会において、聖地の喪失は単なる領土の損失を超える。国家の正統性そのものを揺るがす。


ゆえに、公国としても東部戦線を軽視することはできなかった。


三師団の師団長たちは、野戦司令部の作戦室に集められた。


天幕の中には、粗雑な木製の机と、広げられた地図。そして油灯のかすかな光が揺れている。


戦争の中枢とは、常にこのような場所に存在する。


ネム・ヨバンは地図を一瞥すると、小糸を見た。


その視線は冷たく、そして露骨であった。


「……へえ」


彼女は鼻で笑った。


「こんなガキが師団長か。公国も腐っちまったな」


その言葉には遠慮がなかった。


周囲の士官たちは一瞬、息を呑む。


だが、小糸は反応しなかった。


沈黙。


それは時に最も強い返答となる。


リック・ハウンドはその様子を見て、喉の奥で笑った。


「いいじゃねえか、中将殿」


彼は椅子にふんぞり返りながら言う。


「若いってのはそれだけで武器だ。弾除けには丁度いい」


「貴様……」


ガトー大尉が反発しかける。


だが小糸は、軽く手を上げてそれを制した。


その仕草は静かであったが、明確な意志を含んでいた。


このとき小糸は何を考えていたのか。


記録は残っていない。


だが後世の史家はこう推測する。


彼は、戦争を理解しようとしていたのではないか。


侮辱も嘲笑も、戦場においては些末なものである。


重要なのは、敵と味方、そしてその配置である。


「今しがた敵はどこですか」


小糸は、ようやく口を開いた。


その声は低く、感情を抑えていた。


ネムはわずかに眉を動かす。


「……ほう」


彼女は地図を指で叩いた。


「ここだ。民国軍はこの線で集結してる。狙いは分かるだろ?」


「イデルローゼですね」


小糸は即答した。


その瞬間、作戦室の空気がわずかに変わる。


リックがニヤリと笑う。


「話は通じるらしいな」


戦争において、言葉のやり取りは単なる会話ではない。


それは能力の確認であり、信頼の試験である。


小糸は、その第一関門を越えた。


だが、それだけで十分ではない。


戦場は、結果のみを評価する。


外では、兵士たちが銃を整備し、塹壕を掘り、粗末な食事をとっていた。


「なあ、聞いたか?」


一人の第9師団兵がパンをかじりながら言う。


「お仲間の新しい師団長様、ガキらしいぜ」


「ガキでもいいさ」


別の兵が肩をすくめる。


「俺らを死なせなきゃな」


その言葉は、戦場の真理であった。


将軍の価値は、兵の生死で決まる。


そして小糸は、いまその責任を負っていた。


イデルローゼを狙うゴイコ民国も、今回の戦争においては例外的な熱量を示していたといわれる。


今回の戦争ら単なる領土争いではなく、国家の構造そのものに関わる問題であったからである。


民国は対公国戦線において、大規模な軍団を編成した。


総大将にはハクサン・ガデーロ上級大将が任じられる。


この人物は、民国軍においては異質な存在であったとされる。商業国家における軍人は往々にして官僚的であるが、ガデーロはむしろ戦場の論理に忠実な男であった。


「金で戦争は買えるが、勝利は買えん」


彼の言葉として伝わるこの一節は、民国軍の内部においても広く知られていた。


この言葉が示す通り、彼は戦争を単なる経済活動の延長とは見ていなかった。


むしろ、国家の意思を強制的に現実へと押し出す行為と理解していたのであろう。


その配下には、精鋭が揃えられていた。


特に注目すべきは、「名誉大佐三人衆」である。

民国における柔軟な軍制の象徴であった。


さらに、「進撃の熊」と恐れられる名将、そして異世界転生者であるタカノブ・リュウゾウジ中将もまた、この戦線に投入されていた。


リュウゾウジは、異世界から来た者特有の合理性と大胆さを兼ね備えた将であったといわれる。


彼は戦場においてしばしば既存の教義を無視し、最短距離で敵を破壊することを選んだ。


「教科書は墓場に持っていけ」


彼の言葉として伝わるこの一節は、兵士たちの間で半ば神話的に語られていた。


このような人材が集められた理由は明白である。


イデルローゼ、この聖地を、実効支配するためであった。


読者諸氏に説明しておかねばなるまい。


なぜここまでイデルローゼが争点となるのか。

それは単なる宗教的象徴に留まらない。


イデルローゼには、「イデルローゼの桜」と呼ばれる古樹が存在する。


その下には、ベイル教の守護鐘理卿ヨハンナが初めて鳴らしたとされる鐘。すなわち「ヨハンナの鐘」が奉鐘されている。


この鐘は、単なる遺物ではない。


信仰の起点であり、正統性の証明である。


ベイル教において、ヨハンナは特別な存在である。


彼女が鳴らした最初の鐘は、神意の具現とされる。


その音を再現できる場所、それこそがイデルローゼであった。


「鐘を持つ者が、信仰を持つ」


これはベイル教圏における常識であった。


すなわち、イデルローゼを支配することは、単に土地を得ることではない。


信仰の中心を握ることに等しい。


ここに戦略的価値が生まれる。


宗教は、経済を動かす。民国にとって、これは見逃せない要素であった。


事実、民国にはベイル教の聖地が少なかった。


そのため、巡礼経済において常に後れを取っていたのである。


「祈りもまた、金になる」


民国の商人がそう語った記録がある。


冷徹ではあるが、本質を突いた言葉である。


聖地の有無は、そのまま経済格差に直結する。


巡礼者の流入は市場を活性化させ、税収を増加させる。


逆に、それを持たぬ国家は、宗教圏から経済的に疎外される。


この構造を理解したとき、民国の行動は合理的であった。


彼らは、戦争を通じてこの不均衡を是正しようとしていたのである。


一方、公国側もこの動きを見逃してはいなかった。


東部戦線の司令部において、小糸は報告書に目を通していた。


「……随分と、揃えてきたな」


彼は呟いた。


ガトー大尉が答える。


「ガデーロ、リュウゾウジ、名誉大佐三人衆……本気ですね」


「本気、か」


小糸は静かに言葉を繰り返す。


その表情には、わずかな思索が浮かんでいた。


本気とは何か。


それは兵力の多寡ではない。


意思の強度である。


民国は、今回その意思を示した。


イデルローゼを取る。


その一点において、彼らは迷っていない。


「……なら、こっちも同じだ」


小糸は地図に手を置いた。


その指先は、イデルローゼの位置を正確に捉えている。


守るべきものがある戦争は、攻める戦争よりも苛烈になる。


なぜなら、後退が許されないからである。


外では、兵士たちが夜の中で黙々と作業を続けていた。


塹壕は深く掘られ、機関銃座が据え付けられ、鉄条網が張り巡らされる。


近代戦争の象徴ともいえる防御陣地が、静かに形成されていく。


「なあ」


若い兵士が呟く。


「なんでこんなとこ守ってんだ、俺たち」


年長の兵が答える。


「知らねえよ。だがな」


彼は少し考えてから続けた。


「ここが落ちたら、後ろが全部終わる。それだけは分かる」


それで十分であった。


戦争において、すべてを理解する必要はない。


必要なのは、自分が立っている場所の意味を知ることだけである。


イデルローゼ。


それは、宗教であり、経済であり、そして戦略であった。


戦術は、すでにその周囲で動き始めている。


作戦は、各師団の配置として具体化しつつある。


そして戦略は、この一点に収束していく。


彼の初陣は、もはや個人の試練ではない。


国家の命運を左右する戦いへと変貌していたのである。


夜が更ける。東部戦線は静まり返っていた。


だが、その静寂は嵐の前のものである。


小糸は天幕の外に出て、暗い地平を見つめた。


その先にあるのは、敵か、あるいは未来か。


いずれにせよ、それは血によって測られる。

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