ミザロの戦い前夜
戦争というものは、敗北ののちにその本質を露わにする。と、後世の軍学者は語る。勝利の熱狂は多くを覆い隠すが、敗走はすべてを剥ぎ取る。兵の本心、将の器量、国家の限界。それらは退却路の泥の中に、余すことなく現れるのであった。
ハザレーより南、ミザロへと至る街道は、すでに軍路ではなく難路であった。宗国軍はこの時、2万ほどにまで兵を減じていたと記録される。数としてはなお軍の体裁を保つが、その実、内実は崩壊寸前であったに違いない。
敗走の列に秩序は薄い。
泥にまみれた軍靴、破れた外套、沈黙する兵。彼らはもはや「戦う者」ではなく、「生き延びる者」であった。
「……どこまで下がるんだよ」
「さあな。大将殿が決めるさ。俺らは歩くだけだ」
兵士たちの会話は乾いていた。怒りも、誇りも、すでに摩耗している。戦場において最も恐るべきは死ではない。意味の喪失である、といわれる。彼らはまさにそれに蝕まれていた。
一方、北方メニューにはなお1万の兵が残されていた。しかし、これは戦力ではなく残滓であった。ハザレー敗北の報は瞬く間に伝播し、兵の離脱は止まらなかった。兵というものは数で測れるが、軍というものは意思でしか測れない。そして宗国軍は、すでにその意思を失っていた。
この時点で、北部独立の試みは事実上の失敗と見なされる。戦略とは持続可能性の問題である。補給、士気、外援。いずれかが欠ければ、それは戦ではなく消耗に変わる。宗国はその三つを同時に失いつつあった。
さらに事態を決定づけたのが、同盟国たる帝国の敗北である。
ゴザイの戦いにおいて帝国軍は公国軍に敗北し、その戦力の大半を喪失した。これにより宗国は外部からの軍事支援を完全に断たれたのである。戦争における同盟とは、勝者にのみ価値を持つ。敗者の連帯は、ただの共倒れに過ぎない。
ミザロの司令部において、コロイス大将は沈黙していた。
その幕舎には、かつての威圧感はない。地図の上にはピンが乱雑に刺さり、赤線はもはや戦線を示すものではなく、撤退経路をなぞる線であった。
参謀の一人が口を開いた。
「……兵の減少、止まりません。現在確認できる戦闘可能兵力、約1万8000。補給も限界です」
「わかっているよ」
コロイスは短く答えた。その声には疲労が滲んでいたが、崩れはなかった。将とは、最後に崩れる者である。ゆえに、その崩壊は常に遅れて訪れる。
別の参謀が地図を叩いた。
「ここミザロで迎撃し、時間を稼ぐしかありません。しかし……勝機は」
「ない、だろうなね」
コロイスは即座に言い切った。
その断言には、奇妙な静けさがあった。敗北を認めることは、時として将に冷静さをもたらす。勝てぬ戦においてなお勝利を夢見る者は愚かであり、敗北を前提に次を考える者のみが、歴史に名を残す。
ては、彼は何を選ぶのか。
場面は変わる。
宗国の中枢、臨時の教皇府にて、セルメス妹殿下は沈思していた。彼女は宗国の象徴であり、同時にその最大の賭けでもあった。宗教的権威を政治に転化し、国家を興す。それは歴史上幾度も試みられ、そして多くが失敗した道である。
「……民国は、応じぬか」
その声は静かであったが、内には焦燥があった。
側近が頭を垂れる。
「はっ。使者は門前払い同然にて……。先の戦における公国の強さ、よほど印象が深いようで」
セルメスは目を閉じた。
民国が動かぬ理由は明白である。彼らはすでに知っているのだ。公国という国家の「戦争の質」を。勝敗は数ではなく、構造で決まる。それを理解した国は、軽々しく賭けには乗らない。
「……ならば、我らだけでやるしかない、か」
その言葉は決意というより、確認であった。すでに選択肢は存在しない。国家とは選べぬ道を歩む装置である、といわれる。彼女もまた、その装置の一部となっていた。
再びミザロ。
夜、冷気が陣地を覆っていた。焚火の周りに兵が集まり、黙々と乾パンを齧る。誰も未来を語らない。未来とは、語れる者にのみ許される贅沢だからである。
その中で、コロイスは独り立っていた。
彼の視線は暗闇の彼方、公国軍の来るであろう方角を見据えている。
側近が問う。
「大将……いかがなさいます」
しばしの沈黙。
やがて、コロイスは低く笑った。
「……賭けるしかあるまい」
「賭け、でありますか」
「そうだ。戦とは常に賭けだ。ただし、勝てぬ戦で賭けるならば—。すべてを卓に乗せるしかない」
その言葉には、狂気と理性が同居していた。戦争とは、合理の極致でありながら、最後には非合理に踏み込まねばならぬ領域である。コロイスは今、その境界に立っていた。
「準備を進めろ。ミザロで迎え撃つ。ただし、」
彼は一度言葉を切り、参謀たちを見渡した。
「錬成人を行うよ」
敗者は、最後に一度だけ牙を剥く。
それが歴史の常である。
そしてこの夜、コロイス大将は人命を損ない、
その牙を研ぎ始めていたのであった。
ミザロに迫る公国軍の進撃は、まさにその収束の運動であった。
ハザレーの戦いより数日。公国軍は速度を緩めることなく北上を続けた。これは単なる追撃ではない。敵に再編の時間を与えぬ、近代戦における鉄則であった。兵站線を延ばしながらもなお進むという判断は、指揮官の胆力を要する。だが公国軍には、それを可能とする統率があった。
先鋒を担うは第2師団。そしてその後方より接近するのが、第9師団。
「勝ち戦だな、こりゃ」
前線の士官が吐き捨てるように言った。だがその声音には、確信があった。
「当たり前だろうが。『炎獅子』に『緋鯉』だぞ? 相手は敗残兵だ。蹴散らすだけだ」
別の士官が笑う。彼らの軽口は、油断というより経験に裏打ちされた予測であった。戦場において、兵は空気を読む。勝敗の趨勢というものは、理屈よりも先に、現場に漂う。
しかしその「確信」こそが、しばしば戦争における最大の盲点となることもまた、歴史の常である。
司令部において、ヴリゾラ上級大将は地図を前に立っていた。ミザロ周辺の地形は複雑ではない。緩やかな丘陵と低地、そして点在する集落。防御に適した天然の要害は少ない。ゆえに、ここでの戦いは純粋な戦術のぶつかり合いになると予想された。
「……逃げ場はない、か」
彼女は呟いた。
参謀が応じる。
「は。宗国軍はミザロにて迎撃の構え。後退路は限定的です」
「ならば、なおさら厄介だな」
ヴリゾラは静かに言った。
追い詰められた軍は、しばしば常識を逸脱する。合理ではなく、生存本能に従う戦い方を選ぶからである。それは時に、精緻な戦術をも崩す力を持つ。
「ネムはどう動く」
「第9師団は左翼より展開予定。機動による包囲を狙うとのこと」
「ふん……あいつらしい」
炎獅子はわずかに口元を歪めた。それは笑みとも、警戒とも取れる表情であった。
その頃、第9師団。
ネム少将は双眼鏡越しに遠方を見ていた。視線の先には、ミザロの陣地があるはずである。
「……静かすぎるな」
彼女は言った。
副官が肩をすくめる。
「敗残兵ですからね。士気も低い。抵抗らしい抵抗は」
「馬鹿か」
ネムは即座に遮った。
「追い詰められた犬は噛む。しかも、狂ったようにな」
その口調は軽いが、内容は鋭い。彼女は戦場を楽観しない。勝てる戦ほど慎重に運ぶ。それが彼女の流儀であった。
「ヴリゾラは正面から叩く。なら、あたしは横から骨を折る」
「了解です。連携は」
「最低限でいい。あいつは止まらねえ。だったら、こっちは流れに乗るだけだ」
この二人の将軍は、互いに似て非なる存在であった。炎獅子は突破を信じ、緋鯉は流動を信じる。戦術思想の違いは、そのまま軍の動きとなって現れる。だが重要なのは、その差異が衝突ではなく補完として機能していた点である。
これが、公国軍の強さの一端であった。
一方、公王庁。
小糸は戦況報告を受けていた。
「ミザロにて決戦、か……」
その声は静かであったが、内には複雑な思考が巡っていた。彼は戦場の外にありながら、その中心にいる存在であった。[時巻]の魔法を持つ者として。
夜が明ける。
ミザロの大地に、霧が立ち込める。その中で、両軍は静かに布陣を完了させていた。砲兵は射角を調整し、歩兵は塹壕に身を沈め、機関銃は冷たい光を放つ。
兵士の一人が呟く。
「……これで最後、か」
隣の兵が答える。
「どうだかな。戦争ってやつは、しつこいぜ」
その会話は、妙に現実的であった。
そして、歴史は動く。
ミザロにて、この戦争における最後の戦闘。
いわゆる「ミザロの戦い」が、ここに始まろうとしていたのである。




