犬猿
戦争において、退却という決断ほど困難なものはない。と、古来より軍学は語っている。攻撃は勢いに任せればよいが、退却には理性が要る。しかも、その理性はしばしば臆病と誤解される。
第二次ノヴァ奪還戦の終盤において、名誉大佐三人衆が下した判断は、まさにその種のものであった。
この時、戦線は既に臨界に達していた。
公国軍は、市街の奥深く、いわゆる最低防御ラインにまで迫っていた。ここを突破されれば、もはや組織的防衛は不可能となる。都市戦における最後の堤防が、崩れかけていたのである。
三人衆は、互いに言葉少なに地図を囲んでいたといわれる。
その沈黙は、焦燥の裏返しであった。
(……ここまで押し込まれるとは)
彼らの内心は、おそらく一致していたに違いない。
第一に、魔熱水散弾銃による心理的打撃が、第15歩兵旅団には通じなかったこと。これは予想外であった。通常の兵であれば、あの兵器の残虐性は、前進意欲を挫くに十分である。
だが、リック准将の兵は違った。
あれは兵ではない。信仰に飼われた獣であると、三人は認識したに違いない。
「……あの犬ども、止まらんな」
ナガヤスが吐き捨てるように言った。
「犬? いや、違う」
トモミチは首を振った。
「あれはもう、“人間の形をした意思”だ。壊れん」
その声音には、わずかな畏怖が混じっていた。
第二に、時間である。
第一次奪還戦から間を置かず攻撃されたことにより、民国軍は再編の時間を得られなかった。兵の補充は不十分、弾薬は底をつきかけ、補給線も乱れていた。
戦争とは、補給の芸術である。とはよく言われるが、この時の民国は、その芸術を失っていた。
やがて、戦場には異様な光景が現れ始めた。
「弾がねぇ! くそ、もうねぇぞ!!」
「捨てろ! 魔法で行け!!」
銃を放り捨て、魔法詠唱に入る兵。
火球、水刃、雷撃波。だが、それらは近代兵器の前では決定打にはならない。
この世界において、魔法は既に補助技術である。銃と砲の前では、あまりにも非力であった。
それでもなお、兵は前に出た。
【参諦】の効力によって、退くことができぬからである。
ここに至って、三人衆は悟った。
勝敗は既に決している、と。
だが、それは単なる戦術的敗北の認識ではなかった。
彼らは、より広い戦略の地図を見ていた。
「……ノヴァは、もう“要衝”ではないな」
ソウイが静かに言った。
「ムザクバードが落ちた時点で、線は崩れている」
「南東のモザンビルも……持たんか」
ナガヤスが応じる。
この時点で、彼らは既に報を受けていた。
ムザクバードは公国第1師団によって6時間前ほどに奪還され、南東のモザンビルも多民族国軍が攻略に失敗していた。すなわち、戦線全体が公国側に傾きつつあったのである。
ノヴァ単体を死守する意味は、もはや薄れていた。
戦争とは、点ではなく線で考えるべきものだと、彼らは理解していた。
この認識に至る者は少ない。多くの指揮官は、目の前の戦場に囚われる。ゆえに敗れる。
だが、三人衆は違った。
「撤退だ」
トモミチが言った。
その一言は、重かった。
「……全軍に通達しろ。【参諦】の解除も含めてな」
その決断は、ある意味で兵に「死ぬ自由」を返すものであった。
副官が一瞬ためらう。
「……よろしいのですか」
「よろしいも何も、ここで全滅する意味はない」
ソウイが淡々と答えた。
「戦はまだ終わらん。場所を変えるだけだ」
この言葉には、冷徹な合理があった。
戦争とは、勝つために戦うのであって、死ぬためではない。
やがて、伝令が走る。
「撤退命令! 撤退命令!!」
「全隊、後退せよ!!」
戦場に、その声が広がった。
それは奇妙な光景であったという。
つい先ほどまで死を恐れぬかのように戦っていた兵たちが、突如として崩れるように後退を始めたのである。
【参諦】が解かれた瞬間、人間は再び人間に戻る。
恐怖が蘇り、生への執着が戻る。
それは、堰を切ったようであった。
「退け!! 退けぇ!!」
「生きて帰るぞ、クソ野郎ども!!」
怒号とともに、民国軍は瓦解しながらも後退を開始した。
それを見た公国側は、勝利を確信したに違いない。
だが、この撤退は単なる敗走ではなかった。
戦略的撤収であった。
後世の史家は、この判断をこう評している。
三猿は逃げたのではない。戦場を選び直したのである、と。
事実、この時点でノヴァは、もはや守るべき要衝ではなかった。
むしろ兵力を温存し、次なる戦局に備えるべき局面であった。
ムザクバードが公国に奪還された。モザンビル攻略の失敗。この報をいち早く把握し、決断した三人衆の情報収集能力と判断力は、驚嘆すべきものがあったといえよう。
戦争とは、常に情報の戦いである。
そして、この時、三人衆は確かに一歩先を見ていた。
その意味において彼らは敗者でありながら、なお戦争の主導権を手放してはいなかったのである。
かくして、ノヴァは再び公国の手に帰した。
歴史書はこの一事を簡潔に記す。「第二次ノヴァ奪還戦、公国軍の勝利」と。しかし読者諸氏、戦争とはその一行で語り尽くせるほど軽いものではない。
奪われた都市を、再び戦火によって取り戻す。それが何を意味するか。
それは、瓦礫である。
瓦礫とは、単なる破壊ではない。そこには生活があり、家族があり、日常があった。それらが圧し潰され、焼かれ、粉砕された結果が瓦礫である。国家が勝利を叫ぶその背後で、無数の無名の人生が消えていく。
ゆえに古来より、内地に戦場を持たぬことこそが最上の戦略といわれる。
ノヴァは勝利と引き換えに、その教訓を刻まれた都市であった。
だが戦争は終わらない。
勝者は、さらに勝利を積み重ねようとする。
敗者は、敗北の損害を最小に抑えようとする。
このとき、公国軍は当然のように追撃を開始した。
なかでも最も苛烈であったのは、リック准将率いる第15歩兵旅団であった。
「逃がすなァ!! 一匹残らず噛み殺せ!!」
その号令は、もはや軍命令というより、狩猟の掛け声に近かった。
兵たちは疲労困憊であったが、それでも前進をやめなかった。血に濡れた軍靴で瓦礫を踏み越え、煙の中を突き進む。
「待てコラァ!! 逃げんなァ!!」
「後ろ向いて走るな、撃ち抜くぞクソがァ!!」
その口調には、もはや規律というものが存在しなかった。
しかし、これこそがリックの戦い方であったともいわれる。すなわち、戦場を「秩序」ではなく「衝動」で支配する。
ただしこの追撃は、軍事的には危険を孕んでいた。
戦線が伸びすぎていたのである。
補給も連絡も追いつかず、各部隊は半ば孤立しながら前進していた。これは近代戦において最も忌避すべき状態である。
小糸は、この様子を見て眉をひそめたに違いない。
(……追いすぎだ)
参謀としての直感であった。
(敵は崩れている。だが、完全には壊れていない)
戦史において、退却する敵ほど危険なものはない。彼らは逃げながらも、生き残るための最も鋭い牙を持つ。
そして、その予感は的中した。
民国軍の殿。すなわち最後尾を守る部隊には、あの三人衆が自ら立っていたのである。
「……来るぞ」
トモミチが静かに言った。
煙の向こうから、狂犬の群れが迫る。
「まったく、しつこい連中だな」
ソウイが肩をすくめる。
「犬はな、噛みついたら離さない」
ナガヤスは薄く笑った。
「なら、こちらは木の上に逃げる猿だ」
その言葉は冗談のようでいて、戦術そのものであった。
三人衆は、追撃してくる第15歩兵旅団を巧みに誘導し、分断し、局地的に包囲した。
逃げるふりをし、隙を見せ、食いつかせる。
その動きは、まさしく老獪であった。
「来いよ、犬ども」
「ほら、もう一歩だ」
そして前に出過ぎた公国兵が、次々と絡め取られていった。
狭い路地、崩れた建物、地下通路。
都市という迷宮は、防御側に最後の牙を与える。
「な、なんだと!? 包まれてるぞ!!」
「クソッ、退け!! 退けェ!!」
だが、その退却は遅かった。
追撃の勢いが、そのまま仇となる。
この一幕は、戦術の教科書に載せるべき典型例である。すなわち、「勝利に酔う軍は、しばしば最も危険な地点に自ら踏み込む」という事実である。
報を受けたリック准将は、露骨に顔を歪めたと伝えられる。
「……は?」
その一言に、怒気が凝縮されていた。
「絡め取られただと? あの猿どもに?」
副官は沈黙した。
「クソが……ッ!!」
リックは拳で机を叩いた。
「噛み殺せと言っただろうが……噛まれてどうする!!」
その怒りはもっともであったが、同時に、敵を見誤った結果でもあった。
一方で、三人衆もまた安堵していたわけではない。
「……しつこいな、本当に」
ソウイが吐き捨てる。
「犬というのは、世界が違っても変わらんらしい」
トモミチが苦笑する。
「猿もな」
ナガヤスが応じた。
三人の間に、わずかな笑いが生まれた。
それは、死地を潜り抜けた者だけが持つ、乾いた笑いであった。
こうして、ノヴァ奪還戦は終結した。
だが、この戦いが示したものは単なる勝敗ではない。
それは、戦争というものの本質である。
すなわち、勝者もまた、常に敗北の縁に立っているということ。
そして、猿と犬の争いは、文明の如何を問わず繰り返されるということである。
人間が人間である限り、この構図は変わらぬであろう。
それが、戦史の冷酷な結論である。




