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暴れる竜に目もくれず、ことこと煮込んだスズキ謹製のスープは好評だった。空席だらけの食堂ではあるものの、方舟学園学生寮での初めての夕食はつつがなく終了した。
それから部屋割りやら設備の説明やらが終わると、消灯まで自由時間となった。
寮生活初日の自由時間を、虎徹は建物の中を歩き回ることに費やした。特に外に出る経路となる非常階段や屋上へ続くルートは、いざという時のためにしっかり頭に叩き込んでおく必要がある。何しろ虎徹は方向音痴なので、下調べしてない道や慣れない場所では確実に迷うのだ。
女子の居住区となっている三階以外をぶらっと一回りしてから自室のある二階に戻ると、廊下で楓と美波、蒼雲の三人と鉢合わせた。それぞれ一度自室にて着替えてきたようで、制服からラフな部屋着に着替えていた。楓は地味な灰色のスウェットの上下で、美波はいかにも学校指定っぽい白いラインが一本入った赤いジャージ。蒼雲に至っては藍染の作務衣姿であったが、妙にしっくり来る。
「よう、お揃いでどうした?」
「お風呂よ、お風呂。見て分からないの?」
楓はボディソープやらシャンプーやらリンスだかコンディショナーだかのぎっしり詰まった洗面器と、乳液やら化粧水なんかの入ったポーチを見せる。美波も持ち物は楓と似たようなもので、とにかく虎徹の見たこともないボトル類をみっしりと洗面器に詰めている。無口で無表情で何を考えているかさっぱり分からないが、中身は案外普通の女の子のようだ。
魔法少女や超越者に限らず、女子ってのは風呂ひとつ入るのにも面倒なんだなあ、と思っていると、蒼雲だけは他と毛色が違っているのに気がついた。なんと彼女は洗面器にシャンプーと石鹸と手ぬぐい一枚という古式ゆかしい銭湯スタイルであった。これはこれで何と言うか、味も素っ気も無い話である。
「昼間の竜退治で髪も身体も砂埃まみれよ。早くお風呂に入ってサッパリしたいわ」
「大浴場に三人だと、貸し切り状態でござるな」
「そういや一応ここは寮だから、風呂もでかそうだな」
男湯は俺一人だから気兼ねなく泳げるな、と虎徹が子供っぽい想像をしていると、楓が思い出したように「あ、そうそう」と告げる。
「死にたくなかったら、あたしたちがお風呂から上がるまで、自分の部屋から出ない方がいいわよ」
「…………え?」
「これは冗談でも脅しでもござらん。命が惜しければ、くれぐれも妙な気は起こさず、自室から出られぬよう」
蒼雲まで神妙な顔で念を押す。どう考えても冗談と脅しにしか聞こえないが、二人とも目が本気だ。
「ちゃんと警告したわよ。じゃあね」
「では、これにて」
意味が分からずぼんやりとしている虎徹をよそに、三人は洗面器をカコカコ鳴らして浴場に行ってしまった。
とりあえず自室に入り私服に着替え、壁際に積まれ私物の段ボールの一番上の箱を荷解きし始めたあたりで、ようやく虎徹が彼女たちの言葉の真意に気がつき、
「……のぞかねーよ!」と、今さらながら叫ぶが、すべては遅かった。
「畜生、あいつら、妙な警戒しやがって……」
ぶつぶつ文句を言いながら、段ボールの中身を箱から出していくと、見覚えのある荷物が手に触れた。
それは、衣類に包まれた写真立てだった。
そっと開いてみると、スズキが気を利かせてくれた効果があったのかどうかは分からないが、梱包前と変わらず傷ひとつなかった。
虎徹は写真立てを机の上に置き、荷解きを再開する。
ちょうど着替えや入浴道具を発掘し当てたので、自分も風呂に入ろうと思ったが、ついさっき楓や蒼雲にこの部屋から出るなと警告されたのを思い出した。
「出るなって言われてもなあ……」
死にたくなかったら、とか命が惜しければ、などと言っていたが、いくら覗きを警戒しているとはいえ、脅しにしては物騒だ。
けど相手はあの竜殺しの楓とその仲間たちである。やると言ったら本当にやるだろう。っていうか殺るだろう。下手なヤクザの脅しよりも恐ろしい。
常人なら、こんな危険な警告を無視しようなどと思わない。だがそこは常人とはかけ離れた虎徹である。当然のように無視。伊達に宇宙最強を謳ってはいないが、何より個人的に、女に脅されて黙って引き下がるのは、なんか負けた気がしてムカつくのだ。
「風呂入りに行くだけで、別に覗きに行くわけじゃないしな」
誰にでもなく言い訳すると、洗面器片手に自室のドアを開ける。
するとそこは、荒涼たる異界だった。
「お~…………」
明らかに寮の廊下じゃない。見たことない変な枯木とかまばらに生えてるし、遠くには水墨画みたいな山が見える。古い巻物とかに書いてある地獄に迷い込んだら、たぶんこんな感じだろう。
「…………そうきたか」
甘かった。虎徹が常人ではないように、相手も常人ではなかったことを失念していた。魔法少女と超能力者と妖怪忍者が揃っていれば、たいていのことはできるはずだ。ドアの向こうを異界に繋げるくらい朝飯前だろう。
「はっ!? いかん!!」
気づいた時にはすでに遅し。慌てて振り向くが、ついさっき閉めたはずのドアが、綺麗さっぱり跡形もなく消えていた。これでもう帰れない。宇宙で迷子になったとき以来のピンチかもしれない。
「参ったな……。異界ってどうやったら帰れるんだ?」
見回してみても、現在位置がわかるものが何一つない。太陽や星すらない。せめて標識か案内板でもあれば助かるのだが、そんなものあるはずもない。
だが考えようによっては、空気と地面があるだけ宇宙よりマシな気がする。特に地に足が着いていないあの不安感は、訓練を受けた宇宙飛行士ならまだしも、長年地上だけで暮らしてきた人間には拭い切れない感覚だ。それに生身で歩き回れるのもいい。さすがにドアを開けると即死するようなデストラップを仕掛けるほど、楓たちも鬼ではなかったようだ。
「仕方ない。適当に歩いてみるか」
出口が用意されている保証はどこにもないが、他にやることもないのであてもなく歩き出す。こうなってしまうと、洗面器に詰めたお風呂セットが邪魔でしかない。けれど捨てるわけにもいかないので小脇に抱えて歩くが、何とも絵的に間抜けな格好である。
荒野をスリッパでぺたぺた歩くこと数分。目の前にぼんやりと陽炎が立つように、景色がゆらゆらと揺れ始めた。これは面妖な、と異界で思うのも妙な話だが、用心しながら様子を窺っていると、やがて揺らめく景色の向こうから大名行列のような一団がやって来るのが見えた。
地獄に仏か、と駆け出すよりも早く、無駄に良い視力が行列を成しているものたちがどう見ても人の形をしていないのを捉えた。荷車の車輪だったり、頭だけが宙に浮いていたり、多種多様なものたちがいる。たしかに二本足で歩いている者もいるにはいるが、あれらを人と呼ぶよりはもっとぴったりな名前を虎徹は知っている。
「物の怪……百鬼夜行か」
どうりで古臭い景色だと思ったら、百物語に描かれているような妖かしの世界に飛ばされたようだ。となると、そんなことができるのは、あの面子の中では一人しかいない。
「鞍馬だな。あいつめ、忍術だけじゃなく妖術まで使えるのか」
マルチな妖怪もいたもんだと思っている間に、百鬼夜行はこちらに気づいたのかずんずん近づいてくる。異界にあるはずもない生きた人間の臭いでも嗅ぎつけたのだろうか。
行列はまっすぐ虎徹へと向かってきた。こうなると、相手に気づかれたと思って間違いない。だが虎徹は逃げも隠れもせずに待った。
「あんだおめえ、逃げねえで待ってたんか」
先頭を歩いていた、障子に手足が生えた妖怪が、仁王立ちして待っていた虎徹を見て呆れたように言った。
「こっから出る方法訊かなきゃならないのに、逃げてどうすんだよ」
まったく怖がってない虎徹の態度に、百鬼夜行の連中がざわつき出す。きっとこんな反応されたのは初めてなのだろう。
「出るっつってもなあ、わしらお嬢に頼まれて、この辺りをうろついている阿呆な人間を見かけたら、ちいとばかし痛い目見せてやれって言われてっから。そうやすやすと帰すわけにもいかんべ」
障子の妖怪が「なあ?」と後ろの行列に尋ねると、皆そろって「んだんだ」と頷き返す。
妖怪図鑑などでしか見たことないものを肉眼で見れた感動を噛み締める間もなく、聞き捨てならない台詞が出てきた。女風呂を覗こうとする不届き者を罰するのに、百鬼夜行を持ち出す馬鹿がどこの世界にいるのだろう。まあ実際にここにいるんだから仕方ないが、それにしても痛い目とはどのくらいのものだろう。
「ちゅーこってな、あんちゃん。わしらも仕事じゃけえ、これも運が悪かった思うてちいと痛い目見てくれんかのう?」
明日も更新します。