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だれかと手を繋いで歩く、ということが習慣化していたことには、指摘されて初めて気がついた。大体、世に起きる様々な事象に対しての反応も鈍いネーナが、自分でも意識しない癖だの習慣だのに気づくことなど滅多にないのだ。
白いシャツの胸に滲み出た涙と鼻水を存分になすりつけた後、このまま出張の支度を取りに行こうと言われたネーナは、ごく自然にファイスの左手をとっていた。別に彼がそうしようと提案したわけでも、無言で手を差し出してきたわけでもなかったのに、である。
眉を上げ、唇を引き結んでこちらを見下ろす彼の表情は微妙だ。驚き、考え、納得して苛立つ。内面のすべてが一瞬のうちにファイスの顔をよぎっていくのを、ネーナは目撃した。
「なんだよ」
大きな手に親指を引っかけたまま、その掌の中に指先を丸め込む。反対の手は制服の上着についた申し訳程度のポケットにねじ込んだ。ファイスはネーナの意図を汲んで、厚いコートのポケットに繋いだままの手をしまってくれた。あったかい。
「……いつも、あの友人とこうしているのか?」
「は?」
歩道の端から道路に身を乗り出して辺りを見回すが、乗合馬車が通る様子はない。自宅まで歩くか、と勝手に決めて、ネーナはファイスを引きずるようにして五番街の方向へ足を進めた。
「ひとの手を取ることに抵抗がないみたいだ。あの、友人と?」
「ああ……そうかもね。バニーとはあんまり手を繋いだりはしないけど」
「あいつじゃないなら、だれだ」
ちらりとこちらを見下ろす視線には、半ば答えを確信したような気配がある。なんでそんなことにこだわるんだろうと訝りつつ、ネーナは肩をすくめた。
「ジール。出勤のときは、毎朝ヤツが職場まで引っ張ってってくれるから」
岩石オバケには、どちらかといえば負ぶわれたり、子どものように縦抱きにされることの方が多い。荷物のように担がれたりとか。ジールとはこちらの機嫌と体調次第で腕も組むし、肩を抱かれることもある。
しかし言われてみれば、ネーナは手を繋ぐという行為が嫌いではない。むしろ好きかもしれない。よそ見をしていても目的地にたどり着けるから便利だし、単純にだれかに触れていることで安心する。思えばボスもバニーもジールも、ネーナに触れてくることに躊躇わない連中だ。
そうか、そうやって慣らされてるから、ファイスの急接近にもあまり警戒心がわかないのかもしれない。よくないことだ。
「……毎朝? 組合長の秘書と、毎朝一緒に出勤してるって?」
低められた声が、この後の執拗な尋問を予感させる。たかが手繋ぎごときで、と瞬時に腹を立てたネーナは先に咬みついた。
「そうだよ、毎朝! もう一年はそうしてる、だけどそれがなに? なんか文句でもあんのかよ!」
「一年――」
前を向き、規則正しく歩みながらも、ファイスの声は絶望に沈む。いちねん、と繰り返すつぶやきが、煉瓦の歩道にぽとりと落ちた。
「…………」
「…………」
二つの足音だけが、都の大路に鳴っている。時折他の通行人も通り過ぎていくのだが、二人の周囲は不自然に静まり返っていた。
(な、なん、だよ……)
なぜこんな空気になったのか皆目見当もつかないネーナは、それこそ原因となった行為を中断しようと右手を引いたが、ファイスがそれを許さない。
ネーナは鼻でため息をつき、うつむき加減に自分の靴のつま先を見やる。こういうのはやだな、と思った。ただ漠然と、やだな、と。
一般常識とはかけ離れたところで生きているネーナには、他人がよくわからない。どういう場面でどんな気持ちになるのが普通なのか、本当にわからないのだ。飼ってる犬が死んだとか、大事なものをなくしたとか、そういうことなら想像はできる。だが少なくともいま、ファイスがなぜこんなにも――そう、悲しそうなのかは全然わからなかった。
彼が話さないのなら、ネーナにはなにも言うべきことがない。そんな自分に、ちょっとだけ落ち込んだ。理由は不明だがファイスは悲しんでいて、そうさせたのはどうやら自分で、それは嬉しくない気がする。なのにどうしてあげたらいいのか、やっぱりわからないのだ。
ネーナは急に、いま自分が真冬の街路をコートもなしに歩いていることを思い出した。うなじを撫でる髪も、丈の短い上着の裾から入り込む風も、とても冷たい。
さっきまで気にならなかったのにな、と身を震わせたとき、唐突にファイスが立ち止まった。かと思えば、ぐいぐいとネーナの手を引いて、どこかの建物の壁と自分の間にネーナを挟んで閉じ込めた。
「ちょ、おい!」
急激な方向転換にたたらを踏んだネーナが抗議に顔を上げると、ファイスが額を合わせるようにして瞳を覗き込んでくる。
「あの男が好きなのか」
一瞬、本気で質問の意味がわからなかった。
「あのおとこ?」
きょとんと目を丸くしたネーナに、ファイスは焦れたように舌打ちした。
「ジールだ、ジール! おまえはああいう、金髪で、中背で、眼鏡をかけた綺麗な顔の男が好きなのか!」
なんだそりゃ。ネーナの脳内が疑問符で埋め尽くされた。
ネーナはいままで、ジールが金髪で中背で眼鏡をかけた綺麗な顔の男であることなど、特別に意識したことはなかった。並んで道を歩けば女が振り返り、一緒に食べ物屋に入れば羨望の眼差しが飛んでくることは知っている、でもそれだけだ。奴が悪魔モードで仕事をしているときなど、大嫌いですらある。
「いや、べつに……」
だから正直に首を振ったのだが、ファイスは超至近距離からまだ疑いの眼を向けてくる。
「本当に?」
「ほんとーに」
それから真偽を探るようにじっと目を見つめられ、ようやく信じたのかファイスの肩から力が抜けた。コツンと額をぶつけてきたファイスの唇は、拗ねたように尖っていた。
「……メイは?」
「え?」
「メイにお会いして、どう思った」
さっきからこの男は、一体なにが言いたいのだ。どう思うもなにも、実はもう既に顔の仔細は覚えてないとでも言わせたいのだろうか。そんな本当のこと、さすがに恥ずかしくて口にできるはずがない。
黙秘だ黙秘、と居直ろうとして、ネーナはふと思いついた。
もしかして。
「……どうとも思ってないよ。エラい人は迫力あるなぁ、くらいにしか」
試しにと囁けば、ファイスはすっと顔を離して尖らせていた唇をほどいた。
「緊張して疲れたし。顔はぶっちゃけよく覚えてない」
ネーナはファイスの目を見返しながら、昨日のことを一生懸命思い出して言いつらねた。そうするほどに彼の顔から強張りがとけ、目元が緩んでいくのを確かめれば嬉しくなった。
「あと部屋がすごく広くて、椅子がふかふかだった。お菓子くれたおねーさんが美人だった、かな」
「美人だったか、おまえより?」
黙って聞いていたファイスの口元がついにほころんだ。やっぱりそうだ、ファイスが悲しそうじゃなくなった。ネーナが自分で、どうにかしてあげられた。
ファイスが頬を撫でてくるのに、ほっとして目を閉じる。オレンジの香りが鼻先をかすめて、いい匂いだな、と思った。さっきまで全然しなかったのに。
不意に、唇の横をなにかがかすめた。あ、まずい、と思ったけれど、ネーナは目を開けなかった。
「ネーナ……」
思いつめた響きが耳たぶをくすぐる。右手は繋がれたままだったから、頰に触れてくる手に左手を添えた。唇に、やわらかい感触があった。それは何度も小さく触れて、離れて、せがまれて、ネーナはそっと招き入れてあげた。
薄い舌が入ってくる。けれどその動きは控えめで、ネーナが本当にゆるしているのかどうか、疑っているみたいだ。
いいのに、と思った。ファイスの機嫌がよくなるなら、彼が喜ぶなら、いいのにと。
(ああ、そうだっけ……)
どこかぼんやりとしたまま、ネーナは唇の内側をくすぐる舌に舌先で触れた。ネーナが自分で、どうにかしてあげるのだ。
ファイスは急がなかった。少しだけ顔を傾けて、よりキスを深めたけれど、それだけだ。はっきりと思い出せる彼のキスは強引で、性急で、官能を煽ろうとする意図ばかりが浮き上がって怖かった。でも、いまは。
(気持ち、いい、かも――)
ネーナは背伸びをして、自分からファイスの唇を求めた。浅い場所に差し込まれた薄い舌を舐めて、吸って。自分もこの行為を楽しんでいると、彼を拒む気はないと伝えたくて。
不思議と恥ずかしくはなかった。むしろ使命感のような、妙なやる気でいっぱいだった。
ネーナは自分が、伝えること、理解してもらうということに、あまりにも無頓着だったことを知った。どうせ、という枕詞が先に立つ人生に、それが必要だと感じたことがなかったから。
相手の望むものを渡せるのって、楽しい。それで喜んでもらえるのが嬉しい。ネーナの感情は大雑把な成長をしてきたから、こんな実感が新鮮だった。なのに妙に懐かしくもある。
それにネーナは、ファイスの存在を受け入れる気になり始めていた。まさかバカでもいいと言われたから、というほど単純な話でもあるまいが、今日はどういうわけだかともに過ごすほど彼の存在が傍らに馴染んでいく気がした。
「……ん……」
ネーナが小さく喉声をもらしたのを潮に、ファイスはキスを切り上げた。濡れた唇を拭ってくれる彼の瞳は、見慣れた甘さを取り戻していた。
「どうした……? そんな可愛いことをして、後が怖いぞ?」
名残惜しげにもう一度軽く唇を重ねた彼の声がかすれていて、急に羞恥心が湧き上がる。
「べ、べつにどうもしないし、なんにも怖くない! いっ、いい行くよ!」
プイッと顔を背けて歩き出してから、ネーナは思い出した。ここが天下の都大路であって、決して二人きりの馬車の中でも酒場の個室の中でもなかったことを。
すぐ横を行き過ぎる人と目が合った。身なりの良い紳士で、手にした杖の柄で帽子の鍔を押すようにして微笑んだ。ファイスに向かって。ネーナの顔から血の気が引いた。
どう見ても「うまくやったな」とか「うまいことやれよ」とか、そういう類の笑顔だった。つまり、ばっちり見られていたのである。
「……ッ!」
ネーナは声にならない悲鳴を上げた。
薄曇りの空から一筋の陽光が射し込む真冬の三番街の道端で、コートもなく、冷たい風が吹きつけてきても寒くなかった。それはもう、怖いくらいに。
組合前から続く大路を五番街に入ってすぐ、運河のほとりに王立歌劇場が建っている。この広い都に数ある中でも、最も歴史と権威のある劇場だ。
無教養で無趣味のネーナは毎日それを横目に職場へと向かうのみだが、なぜ今日に限って気にかかったのかといえば、少し先を歩いていた男女の二人組が、劇場の方へ進路をかえたかと思った途端、いきなり熱烈なキスを交わし始めて仰天したからである。
白い総毛皮のコートを着た女性の腰を、すらりとした体躯の男があたりまえのように抱き寄せて。女性は顎に指をかけられるまま上を向き、遠目にも明らかなほどの濃厚なキスを受け止めている。
わ、わ、と意味のない声を上げつつファイスを見やれば、いたって平然とした様子で二人を眺めていた。しかし女性を離した男が道の向こうへ渡るのを見て、立ち止まった。
その場に残された女性は軽くため息をつき、不意にこちらを振り返った。そして意外なことに、ふわりと笑うなり近づいてきたのである。コートの裾を重たげに翻し、細く高い踵の靴で器用に煉瓦敷きの道を歩いて。
その瞬間、繋いでいた手がするりとほどかれた。
(え――?)
突然掌に感じた冷たい空気にびっくりして、思わずファイスを振り仰ぐ。しかし彼の意識はネーナの上になく、優雅な足取りで歩み寄ってくる女性に向かっていた。その横顔に漂う、緊張感。
ちくん、とよくわからない痛みを訴えた胸を、からっぽになった掌で抑えた。
「やっぱり!」
目の前までやって来てにっこりと笑ったそのひとは、審美眼などお空の彼方なネーナの目にすらものすごい美女に見えた。
年の頃なら、おそらく二十代半ばくらい。蜂蜜色の髪を高く結い上げ、ゴージャスなコートの下には瞳と同じ菫色のすっきりとした昼用のドレス。潔く晒した細い首をさらに華奢に見せる、金鎖のネックレスには一粒石のダイヤモンドだ。一つ一つはとてもシンプルなのに、そのすべてが彼女の美貌を引き立てて、大人の女の迫力を醸している。
「ファイス? ねえ、ファイスよね?」
どうやらエロ騎士の知り合いだったらしい、少し低めでやわらかな女性の声。くっきりとした二重の下では、密に生え揃った長い睫毛が風を起こしそうだ。
ふっくらした唇を彩る口紅の輪郭が少しぼやけていて、それが大人の情事を垣間見せたようでドキドキする。ついさっき自分も似たようなことをしたくせに同じと思えないのは、ネーナとファイスの間にはまだその先がないからだろう。
(まだ? まだってなんだ、まだも先もない!)
一人内心で暴れ狂っているネーナをよそに、ファイスは軽く手を挙げて応じる。
「久しぶりだな、ランザ。めかしこんでどこへ行くんだ?」
「そこのレストランで食事をしてから、観劇にね」
彼女はファイスと言葉を交わしつつ、チラチラと好奇心に煌く眼をネーナにも向けてくる。気づいていながら、ファイスは焦らすように意味深な笑みを浮かべた。
「へえ? 一人で?」
明らかに通りを渡って行った男のことを揶揄するファイスに、ランザと呼ばれた女性も唇を笑みの形に吊り上げる。
「男なんて、ほんと碌でもないわ。長く留守にしてやっと戻ったかと思えば、ああやってお友だちとのおしゃべりに夢中になって。もう私のことなんか忘れてるんじゃない?」
軽く顎でしゃくった先には、街燈の陰に半ば身を隠すように向かい合う人が二人。一人はラフな服装だが、一人はグレーのコートの袖を抜いて羽織っている砂色の髪の男。あのキスシーンを彼女と演じていたツレだ。
「ランチは諦めたほうがよさそう、公園のベンチで栗鼠と一緒にサンドイッチでもかじるようだわ」
一人でね、と細い眉と顎を上げてみせるランザは、ファイスの二の腕あたりに目線があるネーナとちがい、女性としては長身だった。まとっている総毛皮のロングコートも、ネーナが着たら床掃除をしてしまうだろう。
どこに行っても恥ずかしくない昼の正装姿のランザと、七番街のワルい奴みたいな格好のファイス。でも気安く言葉をかわす二人の様子に、不自然さはまったくなかった。
よほど親しい間柄なのかと思えば、急にそこにいるのが恥ずかしくなって、ネーナは足を引きずるようにして数歩下がった。ファイスは熱心にランザの顔を見つめていて、くすっと笑って額に落ちかかる髪をかき上げる。
「大目に見てやれよ。あいつ、あんたに捨てられたら死ぬしかないって言ってたぜ」
「これで昼の部の開演に間に合わなかったら、今度こそ捨ててやるわ」
「やめてくれ、周囲が大迷惑だ」
ランザは肩をすくめ、ついにネーナに正面から向き直って満面の笑みを見せた。下がった分だけ踏み込んでこちらに屈む彼女の胸元が眼前に晒され、ネーナはぎょっとして仰け反る。
「ね、あなたファイスのカノジョ? 可愛いわねぇ、いくつ? ファイスったらどこから誘拐してきたの? おねえさんとお茶に行きしましょうか、甘いものは好き?」
「え、いや、でも……」
矢継ぎ早な質問に引きつりつつ、生まれて初めて間近に見るものから目が離せない。なにしろそこには、大きく開いたドレスの襟から覗く、深い深い谷間が出現していたのだ。
ネーナは湯屋が好きだ。
大きな浴槽には花だの果実だのが浮かび、湯を落とすたびに入れ替えられる。集合住宅の一階に共同の浴室はあるが、身体を浸けられる浴槽はない。見ず知らずの女性たちと湯に浸かることは、どうしてだかネーナに安心感をもたらした。心と身体のリラックスのため、週に二回は湯屋に通うほどだ。
だからといって、他の人の肌をこれほどまじまじと見る機会などいままでなかった。
ランザの胸は白くしっとりしていて、ほんのりキラキラして見えて、パツンとした感じの自分のそのあたりと全然ちがう。まん丸な膨らみの大きさなんか倍はありそうだし、すごく柔らかそうで、触れたらどこまでも指が沈むんじゃないかと心配になった。
「美味しいアイスクリーム、食べたくない?」
薄茶の瞳がこぼれそうなほど目を見開き、ちょっと触ってみてもいいかな、ととんでもないことを考えていたネーナは、その一言で我に返った。
「え、食べたい!」
「ダメだ」
ところが元気よく顔を上げたネーナの口を、ファイスの大きな手が後ろから塞いでくるではないか。
「んぐッ!?」
「こいつを誘惑しないでくれ。俺たちは用があって急いでるんだ」
「あら。でも魔術師の店じゃなくて、普通のお菓子屋さんが冬だけ出してる本物のアイスクリームよ? 新年の限定フレーバー、今日までよ?」
(限定! しかも今日までだと?)
聞き捨てならない単語に、ネーナは猛然と暴れ出した。
「むがッ! もごッ! んー!」
口から頰までを覆うデカい掌と、腹を抱えてくる腕を剥がそうと全力でもがいたが失敗し、奴が履いたブーツのつま先を踏みつけるべく思い切り上げた踵を振り下ろす。
組合職員にも、素敵おねえ様は数多在籍している。そして直接のつきあいはあまりないが、こういうタイプの女性がオススメするものはなんでも間違いがないとネーナは経験的に知っていた。なぜなら、ネーナのために美味いものの噂を集めてくるバニーの情報源が彼女たちだからだ。まして、都広しといえどもアイスクリームを出す店はあまりなく、それが魔術で強制冷却したものでない本物ときたら――食べたい、どうしても。
「こら、暴れるな! おい……ッ、ランザ!」
なら放せ! ともがもが叫んでファイスの手に爪を立て、スカートの裾を蹴立てて夢中で抵抗していたネーナは、ランザまで怒られたことに驚いて固まった。
「あっはは! あら、ごめんなさい? でも、ふふ、あはははは!」
見れば少し離れたところに避難していたらしきランザが、弾かれたように笑い出したではないか。ネーナは背後から拘束されたまま、その不思議ともいえる光景に見入った。
「食べたかったわよね、アイスクリーム。いいじゃない、だって限定フレーバーよ!」
ねぇ? と小首を傾げながら指先で目尻の涙を拭う美女の笑顔は、まるで悪戯が成功した子どものようだ。
「こんな意地悪な男、さっさと別れちゃいなさい。あなた可愛いんだから、もっといい男がいくらでも寄ってくるわよ」
一転、妖艶な微笑みでするりと頤を撫でられると、思わず頷きそうになってしまう。別れるもなにもないのだが。
「そのへんで勘弁してくれ……」
疲れ切ったような声が後ろから降ってきて、ネーナは口を塞がれたまま目線を上げた。その頭に顎を乗せ、ファイスが恨めしげにランザを睨んでいる。
「うふふ、あぁおもしろかった! あなたが女の子に手を焼くところが見られるなんて、案外今日はいい日だったみたい。言われなくても、もう行くわ。あなたたちもデートよね? 楽しんで!」
そしてひらりと手を振ると、ランザはいつの間にか話を終えたらしい男の待つ通りの向こうへと向かった。男が彼女の耳元になにか囁き、彼女もなにか囁き返す。二人はキスを――さっき見たより数倍軽いものを――交わすと、腕を組んで劇場街の方へと歩み去って行く。振り返りもしない。
「…………」
あっけにとられたネーナは、ぱちぱちと瞬きした。それからファイスの手を口から剥がし、彼の胸に後頭部を擦りつけながら上を見た。
「なんか、すっごく笑われた……」
「……俺をからかったんだ」
うつむいて疲れた視線を合わせてきたファイスは、ついでのようにネーナの額に口づけてから、やっと腹に回した腕をほどく。
「おまえがバカにされたわけじゃない、気にするな」
「それは別にいいんだけどさ」
春の突風みたいな人だったな、と唖然としただけだ。なんだったんだ、と。いや、なんだったと問えば、おそらく彼女は「暇つぶし」とあっけらかんと答えるのだろう。
「…………」
顔を見合わせたネーナとファイスは、どちらからともなく手を繋ぎ、再び大路の歩道を歩み出す。
おもしろかったとランザは言ったが、彼女こそおもしろい人だとネーナは思う。
完璧なラインの肢体で美しくドレスを着こなし、道の真ん中で堂々と恋人とキスをして、ほんの少しの会話でも大人の余裕を匂わせるような女性が、歴史ある劇場をバックに大口開けて笑っているのだ。ファイスと同じ笑い上戸だとしても、ネーナに与えた衝撃の度合いは桁外れだった。
ファイスに気を使ったわけではなく、彼女は本当にこの人にならバカにされてもかまわない、と思わせる空気を持っていた。
「綺麗なひとだったね」
知らず弾んだ声でそう言うと、ファイスは少し笑った。
「男の趣味は最悪だがな」
そうなんだ、と口の中でつぶやいた。
楽しんで。曇りのない笑顔でそう言った。
楽しんで――その言葉が、ネーナの胸に強く響いた。