第1話 左遷通知と終電後の点検
左遷通知は、毎晩使う点検表より薄かった。
紙を差し出した倉田信吾は、申し訳なさそうな顔だけは作っていた。だが声は妙に軽い。
「会社としてもさ、責任者をそのまま昼勤務に置いとけないんだよ。わかるだろ、須藤」
「南改札の非常扉が噛んだ件なら、先月から交換申請を出してました」
「書類の話をしてるんじゃない」
灰塔設備。桜葉ターミナルダンジョンの保守をまとめて請け負う会社で、俺は三十四歳の設備主任だった。
二週間前、通勤帯直前に南改札裏の保安扉が閉まり切らず、地下一層から小型モンスターが二体だけ漏れた。怪我人は軽傷で済んだが、動画が拡散し、会社は即座に誰かを差し出した。
差し出されたのが俺だ。
「今日から終電後の点検係だ。外注枠扱いだから、現場判断も報告権限も制限される。給料もな」
倉田はそう言って、机の端に新しい腕章を置いた。主任の銀線が消え、代わりに青い外注識別だけが入っている。
「せめて言い方を選んでくださいよ」
「会社に残してやるだけ温情だろ」
そこで会話は終わった。
俺ももう、食い下がる気力はなかった。申請書を握り潰したところで、壊れた扉は元に戻らないし、倉田の保身も直らない。
終電が出た桜葉ターミナルは、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだ。構内放送の残響と、床を洗うモップの音だけが広いコンコースを流れていく。
「主任……じゃなかった、須藤さん」
資材担当の辻本修司が、工具箱を渡してきた。四十二歳。現場の酸いも甘いも知っている顔で、小さく肩をすくめる。
「今夜は地下一層の終電後点検だけです。赤ランプ出てても、深追いはしないでくださいよ」
「赤ランプを見て見ぬふりしろって?」
「生き残るコツです」
辻本は冗談みたいに笑ったが、その目は笑っていなかった。
桜葉ターミナルダンジョンは、使われなくなった地下保守区画と魔力断層が重なってできた都市型ダンジョンだ。昼は探索許可を持つ社会人パーティーが潜り、夜は保守会社が結界と避難路を点検する。
俺は青い腕章を巻き、終電後専用のサービスゲートを開けた。
冷えた空気が頬を撫でる。蛍光灯の白さが途中から途切れ、代わりに壁の誘導灯が淡い緑で続いていた。いつもなら慣れた景色のはずなのに、今夜はやけに遠く感じる。
最初の保守盤の前で、俺は立ち止まった。
非常扉A―17、点検済み。
液晶にはそう表示されている。だが扉の継ぎ目はわずかにずれていて、警告灯は緑じゃなく赤だった。
「点検済み、ね」
指で金具をなぞる。まだ新しい亀裂。今日の昼に直したなら、こんな割れ方はしない。
その時、下の通路から金属が軋む音が響いた。
続けて、誰かの叫び声。
「おい! 誰かいるか!」
反射的に工具箱を掴み直し、俺は薄暗い階段を駆け下りた。




