第8話
「…………逃げた?」
眉根を寄せる。
「主はこれまでずっと、俺たちと苦楽を共にしていた。その主が――」
「逃げたんですよ、あれは。逃げたのでなければなんなのですか? それをあなたに答えることができますか?」
黒審神者はじっと己を見つめてくる。
姿かたちが主そのものであるため、主から言われているような錯覚を起こしそうだ。
「あれは禊の最中に思ってしまったんです。なぜ自分がここまでしなければならないのか、とね」
「禊の最中………」
じっと見つめてくる相手の目を見つめながら、考える。
そしてハッと気づいた。
「もしや……禊が失敗したように見えたのはそれが原因か」
答えを探るようにちらりと黒審神者へと視線を向ける。
だが、それには答えようとしない。
どうやら答えは自分自身で見つけろという意思表示なのだろう。
「まあ、あれはあなたと縁が深いようです。あなたなら境界を越えることができるでしょう」
そう言って、視線を外し、太刀を押しのけると寝台へともぐりこんだ。
「これからどうするかはあなたに一任します。あれを連れ戻すのであればそれでいいですし、このまま私とともにいくというのもありでしょう」
ひとまず休みます。
そしてそのまま眠ってしまったようだ。
すぐに寝息が聞こえてくる。
「…………」
溜息をつきつつ太刀を収め、眉根を寄せたままで部屋を出る。
執務室を抜け、外へと出た。
既に夜が明けきり、初冬のすっきりと晴れた空に太陽が昇っていた。
行く場所は既に決まっている。
(誰にも言わずに行くか……)
審神者が審神者ではないという話を誰が信じるというのだろうか。
最悪、耄碌してしまったのではないかと一笑に伏されるのがオチではないか。
そんなことをつらつら考えながら森へと入る。
そして辿り着いた泉は、早朝と同じく静謐な空気が漂っている。
あの時の騒動が嘘のようだ。
畔へと寄り、泉の中をじっと見つめた。
(あれは境界と言った。境界というのであれば例えば水面……)
目を凝らし、向こう側を覗こうとした。
その時、一陣の風が吹き、水面を揺らす。
「………いた」
思わず声が漏れていた。
揺れている間だけであるが、自分とは違う者が確かに映っていた。
間違いなく主だ。
そう確信した。
(では、どうする?)
どうやって泉の向こう側へ行くか。
いや、と否定した。
(俺自身、縁があると言っていた)
ふと思いつく。
もしや、あの黒審神者は案外良い奴なのではないか、と。
そして速攻それを否定する。
「我らの主を“戻ってこなくともよい”と宣った奴に良い奴がいるわけはないな」
そうはっきりと言い、単純な方法を実行に移してみることにした。
泉に飛び込むという方法だ。
しかし、鏡であるならば、主の姿が水面に映っていなければならないのだろう。
その時だった。
水面の向こうの主が顔を上げた。
主の、その視線の先を見て、表情が強張る。
もう一人の自分がいたのだ。
「…………主…」
主が立ち上がった。
嫌な予感は必ず当たるようだ。
立ち上がった主が、もう一人の自分のもとへと歩いていくのが見えた。
思わず声が出ていた。
「ゆき!!」
それは自分と主との確かな縁。
その縁の始まりは10年以上前。
だが自分の中では瞬きほどの時間なのだろう。
未だ繋がっているであろう縁を信じ、泉へと身を躍らせた―――――
身が水中に没したと感じた次の瞬間、水の感触は消え、代わりに真っ暗な空間へと放り出された。
主がいる場所ではないのは確かだ。
辺りを見回すと、向こうから一人の老人が幼子の手を引いて歩いてくるのが見えた。
いつの間にか暗闇が晴れ、近代の街並みが出現する。
突如として目の前に現れた二人は、歩道をゆっくりと歩いてゆく。
「…………主?」
幼子の姿に見覚えがあった。
あれはまだ自分が展示品として博物館に飾られていた時のことだ。
モノと会話をすることができる老人と幼子がやってきた。
もの珍しさと興味を引かれ、戯れに彼らと会話を交わしたものだった。
そして時は経ち。
自分は本丸に顕現し、あの幼子と再会した。
「この俺に何を見せようというのだ?」
早く主のもとに馳せ参じたいというのに。
苛立ちから、思わず舌打ちをしてしまう。
「何者かは知らぬが、俺を苛立たせようとは酔狂だな」
己がこのようなことで苛立ちを露わにすることに多少の驚きを覚えながらも、なおも続ける。
「主が俺を拒もうとも、俺は主への道を所望する。それが俺の望みだからだ」
その言葉に景色が僅かに揺らいだ。
それに気付き、素早く思考を巡らせる。
「俺たちには主が必要不可欠だ。それが主の心の負担になっているなら、半分は俺が受け持とう」
次第に景色が滲み、ついに闇へと還った。
最初に戻ったのかと思ったが、それまでの闇とは違い、身を包み込むのは温かさだ。
主の気配を色濃く感じる。
「主よ……泣いているのか?」
実際は泣いていないのかもしれない。
だが、なぜだかそう思った。
主の泣く姿をこれまで一度も見たことはない。
喜怒哀楽の基準でいうと、喜の部分が多いように思えるからだ。
それでも完璧な人は存在しないのはこれまでの経験上、よく知っている。
(やはり、すぐにでも傍らに行くべきだな)
決意を新たに、抜刀の構えをとる。
手が太刀にかかり、鯉口を切った――――――
鞘走る音がし、一閃が闇を斬り裂く。




