03|読めないはずの文字
ユースルフィアの後ろ姿を見送ったあと、僕は外套を羽織り、寮を出た。行き先は蒼天の塔。かつてセプティム王国の象徴と呼ばれていたその尖塔は、いまではサンクレア魔導国の中枢として、王都の真ん中に聳えている。
街には祝いの布が飾られ、祈りの灯が用意されている。
明日は【調和の日】だった。
この世界で生きる者なら、誰もが知っている祝日だ。二百年前、世界を覆った厄災に抗い、五柱の召喚獣とともに世界を救ったと伝えられる“調律の英雄”を讃える日。本来ならば調和の日になると、国が――いや、大陸中が日常を忘れて祝祭をひらく。けれど、人々の目は空を警戒していた。祝祭でさえも、戦の休符にはならないことを、誰もが知っていたからだ。
塔の門をくぐると、外の匂いが遠ざかった。代わりに水の流れる音と澄んだ水の匂い。そして紙の匂いが満ちてきて、静かな神秘が空気へ混じる。
上層には国の中枢があり、下層には役人や魔導士たちが行き交い、そのさらに内側には膨大な書物が眠っている書庫がある。剣より先に知を置くサンクレアらしい場所だと、僕は思う。
「おや、フィオルくん。今日も来たんだね」
この人は蒼天の塔の近衛番で、ここに通うようになってから、何度も顔を合わせてきた。静かな人で、余計なことはあまり言わない。けれど、毎日ここへ来る僕を見ても、変に詮索したり、追い返したりはしなかった。ただ、今日も来たんだね、と、いつも通りの声で迎えてくれる。
「はい……少しだけ、本を探しに」
「はは。少しだけ、で済んだためしがないだろう。悪いな、記名を頼むよ」
近衛番は肩を揺らして笑った。それから、羊皮紙と羽ペンを僕に渡して、ふと思い出したように付け加える。
「今日は、灯りをいつもより早めに落とすから、あまり遅くならないうちに降りておいで。……それと、いつも通り……――わかるよね?」
「……はい。上層の奥には、近づきません。ありがとうございます」
「ああ。いってらっしゃい!」
短いやり取りを終えて、僕は書庫へ続く階段を気分よく駆け足で登った。
こうして名前を呼ばれ、今日も来たのかと声をかけられるだけで、自分がここにいてもいいのだと少しでも思えるからだ。
二階層の書庫は相変わらず広く、一階から二階まで背の高い棚で埋め尽くされていて、その中には隙間なくびっしりと書物が綺麗に収納されている。書庫特有の紙と埃の匂いが漂っていた。
書庫通いの始まりは、単純な願いだった。
すぐに怪我をするロイを癒したい。
いつも自分を庇ってくれるロイを守りたい。
ある日、抱いた願いが受け皿になって、僕はまず、癒しの象徴である水の加護を調べた。今となっては水の魔法なら初級から上級まで全て暗記しているほとだ。さらには、人為的に加護を授かる方法はないのかと探るうちに、そもそも加護とは何か、理力とは何かを知りたくなった。
結局頁を重ねても、知りたかった答えは見つからなかったけど、不思議と僕は書庫の中でなら息ができた。戦場へ行けない罪悪感も、紙の上では別の形へ変わる。ここでなら、まだ前へ進める気がした。
読む本を探して歩いていると、一冊の背表紙に目が留まった。厚い革装丁。題字は学術書らしく無愛想で、飾り気がない。
『第六理光源仮説綱要』
著者名は、この大陸に名を残した古代史学者のものだった。これは、“調律の英雄”が光の適性者だったのではないかという説を唱えたことで知られる本だった。
僕はそれを机へ運び、丁寧に開いた。
調律の英雄――召喚魔導士。
それは、かつて僕が見ていた夢だった。
人は通常、五理のうち一つしか扱えない。けれど、伝承に語られる召喚魔導士は違う。火・水・風・雷・土、その五理すべてを扱い、さらには、第六の理と伝わる光の魔法すら唱えたとされている。それはあまりにも遠く、あまりにも途方もない存在だ。
そんな偉大すぎるものに憧れていた時期が、僕にもあった。今となっては、少し眩しすぎて直視できない夢だ。
本には、その英雄の力についていくつもの説が書かれていた。五理だけでは説明しきれない術。闇を祓う光。異常な安定を見せる結界。後世の学者たちは、その規格外の力をなんとか理屈で捉えようとしてきたらしい。
その中に、ひときわ目を引く記述があった。
――蒼光に導かれ、古代文字の解読に長けていた。
行を追いながら、僕は考えた。蒼光。第六の理。
そして、思い出す。
僕は五年前に、たった一度だけ五理に属さない魔法を唱えたことがある。
訓練学校にいた頃のことだ。僕自身、どうして唱えられたのか今でもうまく説明できない。詠唱の言葉がふいに形を持って、気づいた時にはそれを口にしていた。放たれた光は、たしかにそこにあった。
教官には“魔法ではない”と切り捨てられた。なにより、それ以来一度も唱えられていないのだから、まぐれだったと考える方がずっと自然だった。
本を棚へ戻そうとして立ち上がった時だった。視界の端に、不自然な背表紙が映った。
染料ではない。革でもない。灯りの反射でもない。
ただ蒼い、という概念だけが、そこに立っていた。
僕は導かれるように近づいた。背表紙には、封律文字とも違う、さらに古い線が刻まれている。
「これって古代文字……?」
紐で結ばれた書には、小さな札が差し込まれていた。
『閲覧禁止書物』
『聖導院の許可なき者、追うべからず』
「……!」
僕の喉が、ごくりと鳴る。“閲覧禁止書物”。それは、本来なら厳重に管理されているはずの書物だ。
知を重んじるこの国では、危険な情報や、不都合が記された書ほど深く隠される。だから“閲覧禁止”の札そのものはおかしくない。けれど、そんな書が誰の目にも触れる大書庫へ紛れ込んでいるのは、どう考えても異常だった。
躊躇は、あとから追いかけてきた。表紙の蒼から、どうしても目を逸らせなかった。題名も、著者名もない。まるで、名づけを拒んでいるみたいだった。
最初の頁を開くと、中央に朱印が押されている。
「道標の書……」
恐る恐る次の頁をめくると、古代文字が頁いっぱいにびっしりと詰め込まれていた。知っている言葉は、一つもない。
「古代文字なんて、読めるわけないか……」
苦笑して本を閉じようとした、その時だった。真ん中の行が、ふいに光を帯びた。視界へ焼きつくと同時に、頭の中へ言葉が落ちてくる。
まるで、最初から知っていたものを思い出したみたいに不思議な感覚だった。誰かが耳元で囁くわけではない。ただ意味だけが、まっすぐこちらへ届いてくる。
⸻
闇 世を覆ふ時
我らが母 蒼き光を生む
その蒼光を纏ひし者は
調律へ導く――道標
⸻
「読めた……」
読めるはずのない古代文字が、たしかに意味を持って胸へ落ちてくる。そして、その内容は、さっきまで読んでいた学者の仮説と、一本の線で結ばれていった。
「蒼い光の魔法と、古代文字の解読……」
書に記された“光の適性者”の特徴と、自分に重なる点が二つもある。それは、果たして偶然なのか。
その瞬間、頁の片隅に刻まれた別の文字が、ふいに蒼く際立った。再び、頭の中へ言葉が流れ込んでくる。
今度のそれは、先ほどの文よりも低く、冷たく、どこか遠いところから響いてくるようだった。誰かが告げているというより、ずっと昔に刻まれた声が、時を越えていま目を覚ましたような感覚だった。
――調律より二百年、封印は解けゆくだろう。
「……」
僕は息を呑んだ。
封印。その言葉は、ひどく不吉な重みを持って胸へ沈んでいく。何が封じられているのかも、その封が解けることが、何を意味するのかもわからない。けれど、それが単なる学説や伝承の一節ではなく、もっと差し迫った何かを指していることだけは、理屈ではなく肌でわかった。
書庫の灯りが、ふっと揺れる。まるで塔そのものが、その文にわずかに呼応したみたいに。
そして指先が熱くなる。視界の端に一瞬だけ、かつて放った“あの光”の残像が見えたような気がした。
本を閉じることもできないまま、僕は蒼く光るその文字列を見つめ続けた。目を逸らした瞬間、自分の知っている世界の輪郭が、ほんの少し変わってしまう気がしたからだ。




