第2章 水面下
女王は長い廊下を歩いていた。後をついていく女官の顔はなんだか青ざめて見えた。
「これで、良かったのよね、アラリス。」
女官は返事をしなかった。女王だって別に返事を求めているわけではなかった。ただ、自分の不安を誰かに託したかった。
女王の背後には漆黒の扉。この建物にはありとあらゆるところに、歴代の女王によりいくつもの術がかかっていて、この扉も例外ではない。そのうちの一つ、防音魔法により、扉の向こう側の民の声は、ここからでは全く聞こえない。例え、どれだけの怒号が飛びかっていたとしても、どれだけの悲痛な叫びをしぼりだしていたとしても。
国民は今回のことをどう思うだろうか。私はどうしても民の心情が理解できなかった。どうして他国の子をそこまで毛嫌いするのか。そんな概念は彼女には植え付けられなかった。底の無い、無知だった。幼い頃から城の奥深くに包まれていて、気がついたら玉座に座らされていた。なぜ自分がこんな所にいるのか、ここは私の席ではないのに、なんてぼんやりと考えていた。だからある日、たまらず聞いてみると、国内で異常事態が発生していることを、その時初めて聞かされた。
相次ぐ異常気象、自然災害の数々。死人が増え、数々の家屋は崩れ、経済の混乱。学者達によれば、あと数十年もしないうちに食糧危機になるそうだ。
先代の王がとうとう病の床についたため、ますます国の内政は苦しくなった。その混乱に乗じて官吏たちは専横を極めた。ある者は官位を金で買い、そうして支払ったもの以上を国庫から掠め取っていった。最初はこそこそとしていたが、最近では私が即位するまでどうどうと強奪していたらしい。それこそ、王族しか所持することを許されない装飾品や王位継承に不可欠な宝物までもである。そしてついに先代の崩御。そのため王位第一継承権を持つ、先代の妹エレノアが新王となった。
そんなことを聞かされて、誰が平然としていられるものか。いくら一国一城の主で贅沢な暮らしが保証されていようが、自国がこの有様ではどうしても心穏やかではいられるはずがない。今までずっと城の奥で、姫として安穏と暮らしていて、この状況に気づかなかった自分の愚かさを呪った。どうして兄エイビスはこの状況を教えてはくれなかったのか。もしかしたら隠そうとしていたのか、この国を。自分達ヴェリディアン一族が治めていた結果がこれなのかと知られたくなかったのだろうか、自分の妹でさえ。なんて愚かな、なんてなんて愚かな。人は愚かだ、苦しければなお愚かになる。と、即位するだいぶ前に読んだ詩に書いてあった気がする。もっとも、その詩は世界を警鐘するようなそんな大それたものなどではなく、陳腐な色恋沙汰のものだったけれども。
兄は、私が政に参加するのをひどく嫌っていたようだった。兄が即位したのは今から、…確か12年前だったと思う。私が10歳だったから、13足して兄は23歳だったはず。この国の王位継承は女優先であるから本来なら、あの時私が即位するはずだった。しかし兄は、私がまだ幼いから、という理由で周囲の反対を押し切って自分が即位した。あの時は結構大変だった。どうやら兄妹で、妹がいるのにわざわざ兄の方が即位する、というのは前代未門だったらしい。兄が何かへまをしでかすと、よく官吏や側近達がそれをネタに皮肉を言ったものだった。それを聞くと、いつも決まって兄は私の方に振り向いて『ノラ、俺はずっと前から、何か歴史に残るようなことをして、名前を後世にずっと伝えてみたいな、って思ってたんだ』
なんておどけていたっけ。その後ろで溜め息をつく官吏のあきれ顔まで、私はちゃんと憶えている。結局、兄は『国を傾かせあげく早死にしていった滅王』として国民の一人一人に刻みつけられてしまった。全く皮肉なことだ。あんなにお茶目でやさしい兄が人々を苦しめた暴君だなんて。
王族だから一般人よりは、家族の心の距離というものは遠いと我ながら思う。でもどこかの小説に出てくる王家の人々みたく、殺意をこめた視線を常日頃感じるような、そんな険悪な家族関係では決してなかった。だがなんでも遠慮なく腹のうちを教えあうような関係でもなかった。言ってみれば、遠すぎる親戚というか、ほぼ他人のような感じだった。別に遠くないはずなんだけど、絶対に近くないと言える存在。兄だけは、よく私には話しかけてくれて、冗談なんかで笑わせてもらったけれども、私は兄が当時何を思っていたかなどこれぽっちも分かってなかった。今考えてみると、兄が怖い。側近に聞いてみると、兄はほとんどこれといって改革や改正案の類は考えていなかったらしい。あんな冗談を言っていたあの兄が。沈みゆく国をただ見ていただけだったのだろうか。そんなまさか。…陛下、いや兄さん。あの時あなたは何を思い、何を考えていたのですか?兄が体調を崩して床に臥していたときに、それを聞いておけば良かった。今更だがそう思う。彼は元々そんなに体が強い体質ではなかった。結核だと医者に言われた。伝染するのを恐れ、官吏達がとめるのを好都合に、私は一度も兄の所へ見舞いに行ったことはなかった。後悔している。ああ、なんて馬鹿な妹だったのだろう。あの時最期のときまで一緒にいてあげれば良かったのに。兄の葬式でさえも、私は兄の死に顔を見なかった。たった一人の、血の繋がった家族だったのに。政務で疲れている時は、いつもこんな風に兄のことを考えるようになった。
そんな経緯で女王になった私だが、女だからといっても官吏の目は冷たい。私の母親はイザベルという名前であり兄の先代、つまり先々代の女王だった。彼女は前夫アルバートとの間に第一王女グロリアと第一王子エイビスの2人をもうけた。だがエイビスが12の時、グロリア王女はで不慮の事故で亡くなったらしい。享年14だったそうだ。その後アルバートも病死して、母は後夫エドワードと再婚し、私を産んだ。母が在位していた頃から何やら災いの前兆がでてきたらしく、だから彼女の代から暗君の政治は始まったといわれている。つまり母の子である私達には信用が置けないらしい。
私に関して民は、とんでもない世間知らずで国を治める資格など無いなどと思っているようだ。確かにそれは否めない。私にはわからないことが多すぎる。こんなにも王様家業が大変だとは夢にも思わなかった。世間の常識というか国民性というか、独特のそれは私とは合わないと思う。
具体例を出せば、と私は溜め息をついた。まず魔法戦士の件だ。なぜ国民があの他国の子を嫌うのか理解できない。元々、この国は他国との交流があることはあるが、魔法を使わない国とは皆無といってよかった。民だって幼い時から周りの人間に、魔法が使えない野蛮なやつらだから交流してはいけない、とかそういわれてきて育ったのだろう。見たことが無いものにどうして嫌悪の情がわくのだ。人から見聞きしてきたものに自分の見解も感情もすべて流される。それはとてもいい加減なことに思われた。でも世間は国民は、そんなこと微塵も思ってないようだ。馬鹿な女王だ、そんな言葉が官の言葉の言外に含まれているのも百も承知。
前に歩いていたアラリスが立ち止まった。長い考え事をしていたから、エレノアは思わず少しつんのめってしまった。もう控え室の前まで来ていたのだ。アラリスはドアの取っ手に手をかけた。
「陛下。」
突然アラリスが振り向いた。声をかけられてエレノアは少しびっくりした。
「何?」
「私、陛下のおっしゃっていることは正しいと思ってます。」
エレノアは微笑んだ。
ちょっとここで人物整理。
エレノア・ヴェリディアン…現女王で元第二王女。エドワードの子。父親が違う兄と姉がいる。愛称ノラ。
エイビス・ヴェリディアン…先代の王。元第一王子。グロリアの弟でエレノアとは異父兄妹。