9一美の父親
一美のマンションに着き、エレベーターに運ばれ部屋の前に立つと、財布の中から合鍵を取り出し鍵穴に差し込んだ。
ドアを開けると、暗かった玄関に明かりが灯る。
センサーで感知して、自動で照明が付くのだ、この家は。
最初に見た時は、一美が中で隠れて見ているのではないか、そう疑って部屋中を探し回ってしまったが、今ではこんな仕組みがあることもちゃんと理解している。
ご苦労、なんて呟きながら、プチセレブになった気分で、スニーカーを脱いで足で端に揃えた。
シューズボックスの上に置かれた四角い箱に、俺の名前が書かれた長方形の紙を差し込むと、ヴゥーと音をたてて吸い込み、ガチャンと噛みついてペッと吐き出した。
日付別に記録されたタイムカードを一瞥し、外国製のタイムキーパーの横に並べて置いた。
タイムカードを使用するようになってから3ヶ月。
これを見れば、何日の何時からここにいて、何時にここを出たのか一目でわかる。
どうして恋人の家にこんなものがあるのかというと……初めて一美の父親に会った時のことは、衝撃過ぎて今でもすぐに思い出せる。
一美と付き合って一ヶ月が経ち、家に遊びに来るようになり、ちょくちょく部屋に泊まることも増えてきたあるバイト帰りの夜。
「明日、うちの父親が会いたいって言ってるから、夜あけてね」
急に一美から告げられた。
彼女の父親に会う。
それは世の男にしてみれば、ちょっとした一大イベント。
殴られるんじゃないか。
それはなくとも、文句や小言の一つでも浴びせられるかもしれない。
そんな嫌なイメージが頭を縦横無尽に駆け巡る。
ウキウキして小躍りするような奴は、一人としていないはずだ。
まともな日本人男子であれば。
俺もその範疇に洩れず、一人の立派な男の子なわけで、当たり前のように|狼狽≪うろた≫えた。
「なんでまた急に?」
ちょっと語尾が震えてしまうくらいは許してほしい。
彼女の父親に会うのなんて、人生初の出来事だったのだから。
「よくわかんないけどさ、会いたいんだって、パパが」
確か、一美の父親は海外で働いていると聞いたような気がする。
たまたま日本に帰って来る機会があって、たまたま娘に彼氏がいるのなら会ってみようかな、そんな軽い気持ちだろう。
そう思っていた。
実際に目の前にするまでは。
翌日、これまで縁がなかった高級ホテルのロビーで、頼んだことがないような値段のコーヒーを飲み、一美の父親を待っていた。
そわそわと落ち着かない俺を対象に、一美は一片の戸惑いも見せず、手馴れた様子でふかふかのソファーに身を沈めくつろいでいた。
父親は、約束の時間から十分程過ぎて登場した。
飛行機の到着時間が少し遅れたらしい。
会うなり遅刻したことを詫び、正面のソファーに腰を下ろした。
俺は、「悪いのは飛行機じゃないですか」なんて間抜けな言葉を返し、これまた間抜けな笑顔を浮かべた。
半年振りに会う父親に対する一美の態度はどこか冷たく、二人の間に流れる気まずい空気に居心地の悪さを覚えた。
「君が一美の彼氏だね」
父親がコーヒーカップ片手に俺を見た。
「はい。一生といいます」
慌てて立ち上がろうとした俺の右手を、一美が力強く引き寄せる。
おかげで、中腰のまま中途半端な姿勢から動けなくなってしまった。
「ああ、いいんだよ。そんなに気を使わなくても」
父親がにこやかな笑みを浮かべて、俺に座るように促した。
「そうよ。こんな人に、気なんて使う必要ないんだから」
ぞんざいな口調で、一美が続ける。
実の父親に向かって言うセリフとは思えない。
うちだったら、拳の一発が飛んできそうだ。
恐る恐る父親に目を向けると、彼は弱々しく笑顔を浮かべ、
「こんな人はないだろう。パパに向かって」
寂しそうに自分の頭に手をやった。
一美はツンと尖った顎を父親に向け、
「いいじゃない」
とそっぽを向いた。
なんだか父親がかわいそうに思えた。
だから、
「お前、ちょっとひどいんじゃないの」
思わず小声で注意してしまった。
一美が拗ねたように唇を尖らせ、「だって……」と父親を睨む。
「いいんだよ、カズ君。わたしの為に喧嘩なんてしないでおくれ」
申し訳なさそうに困った顔をされた。
しかも、カズ君とか呼ばれちゃってるし。
俺と一美の父親は、想像していたようなギスギスした空気にはならなかった。
けれど、違った居心地の悪さがある。
一美と父親がこんなに不仲だったなんて知らなかったからだ。
「わたしはね」
彼がおもむろに語り始めた。
「若い頃からがむしゃらに働いて運よく成功を手にし、海外での仕事も成功した。けれど、その分一美には寂しい思いをさせてきたんだ。わかるかな?」
俺は曖昧に、「ええ」と頷く。
「早くに妻を亡くしてね。母親の分まで一美には愛情を注いできたつもりなんだよ。ただ、あまり上手くそれが伝わらなかったようでね」
つまらなそうに顔を背けている一美に、彼が微笑みを向けた。
俺が肘で一美を突くと、邪魔そうに払いのけられた。
「カズ君のことは、一美から聞いてるよ。優しい彼氏ができたって。
本当に嬉しそうに話すもんだから、最初はすごく嫉妬をして嫌な気分になった。
けれどね、一美がカズ君のことを話すのが幸せそうで。『カズ君がカズ君が……』カズ君の事ばかりだよ、最近は」
「パパ!」
一美が眉間に皴を寄せて父親を睨んだ。
「いいじゃないか、本当のことなんだから」
おどけるように父親が肩をすくめ、「なぁ」と俺に同意を求めた。
ずっと海外で仕事をしているからだろうか、アメリカナイズな仕草がよく似合う。
一美と父親の間に挟まれ苦笑いするしかない俺に向かって、真剣な表情で彼が身を乗り出してきた。
両手で俺の手を掴み、
「カズ君。我儘な娘だけど、これからもよろしく頼むよ」
なんてことを言ってきて、思わず、「はい」と答えてしまう俺。
そんな圧倒されっぱなしのまま初顔合わせは終了。
父親は笑顔で手を振りながら帰って行った。
力強くハグをされ、盗むように頬に口付けされた一美は、見たこともないほどに顔をしかめ、ごしごしと俺のシャツに頬をこすりつけていたけれど。
「ただいまー」
一美が帰ってきて、風呂に入り夕飯を食べた。
今日一日の仕事の成果? を報告し、寡黙でニヒルな床屋のマスターの恋愛事情についてお互いの意見を交換しあい、二人で横向きにも眠れそうなキングサイズのダブルベットに寝転んだ。
実は明日も仕事は休みだと言われている。
コンビニのバイトをわざわざ休みにすることなかったのかもしれない。
誰もいない無人のコンビニを思い出し、明日また顔を出してみようと思った。
ベッド脇に置いてある間接照明に照らされた一美の横顔をちらりと一瞥した。
静かだと思ったら、どうやら寝てしまったようだ。
化粧を落として眠っているすっぴんの寝顔は子供のようだ。
規則正しい一美の寝息を感じながら、俺は目を閉じた。




