1.五千円ぽっきりの探偵
その日はいい天気だった。
空は青々と晴れていて雲ひとつなく、甘いカスタードの匂いを含んだ風が頬を撫でていく。
そんな心地よい日に、俺は変な男に出会った。
「そこのお兄さん。五千円でどう?」
とりあえず、聴こえない振りをした。
「五千円だよ。五千円ぽっきりだよ」
視線を合わせることなく無視を決め込む。
こういう輩は目が合うだけでしつこい。
「ねえ、そこの道行くお兄さんってばー。大サービス中だよー。ものすごくお得だよー」
男はまるで友達のように、隣に並んで歩く。
やがて50メートル、100メートルが過ぎ赤信号につかまった。
「君って歩くの速いよね」
どうやら、諦めてくれる気はなさそうだ。
俺はため息混じりに顔を上げた。
「五千円。五千円でどーよ?」
右手をぱっと開いて、男が目の前に突き出してきた。
そもそも、さっきから五千円という金額ばかり繰り返すが、いったい何の代金なのだろうか?
改めて男の外見をチェックしてみる。
身長は俺より低いから165センチ前後くらいで痩せ形。
細身の濃いブルージーンズに、どこのブランドでも出していそうなシンプルなスニーカー。
赤いチェックシャツの襟元からは、真っ白なTシャツが覗いている。
一般的な風俗の勧誘にしては、ちょっと変わった姿だ。
何よりも、表情に人を値踏みするような薄い笑みがない。
俺が訝しげに観察していると、男が言った。
「青だよ。渡らないの?」
いつの間にか五本の指が消え、人差し指が遥か前方の青信号を指していた。
腕時計を見る。
午後四時三十五分。
バイトの時間には、まだ少し余裕がある。
点滅している信号を眺め、俺は数歩横に移動した。
ガードレールに腰を下ろして、手招きで男を呼び寄せると、男は一瞬不思議そうな表情を浮かべ、頷いて俺の隣に座った。
「で、なに?」
「五千円ぽっきりだよ」
「だから、何が五千円なんだよ。あんた、肝心の商品について何も言ってないじゃん」
「あー、そうだね。そうだったねー」
男がポケットに手をねじ込み、一枚の紙を出した。
「こういう者です」
丁寧に両手で差し出されたのは、手作り感丸出しの名刺。
少し黄ばんだ四角の中にはたった二文字。
漢字で『探偵』
名刺を受け取って裏返してみるが、名前も電話番号も書かれていない。
「あんた、探偵なの?」
「まぁね」
「で、探偵が俺になんの用?」
「今なら五千円ぽっきりだよ」
「いや、探偵さんに調べてもらうことなんて、特にないんだけど。さしあたって困っていることも悩みもないし」
苦笑交じりに呟いて名刺を返した。
すると男は困ったように微笑み、弱々しく首を振った。
そして、こう言ったのだ。
「誰も君の悩みなんて聞いてないよ。聞く気もないし」
意味不明。
「じゃあ、さっきから五千円って繰り返しているのはなんなんだよ? 仕事の依頼人を探してるんだろ?」
「別に」
「別にって」
「『別に』は別に違いますってことだよ」
真面目な表情で言われてしまった。
「なら、どうして俺に付きまとうんだよ!」
思わず叫び出そうとしたその瞬間、笑顔で男が言った。
「五千円ぽっきりで、ボクの弟子になりなよ」
「バイトしないかってことか? 日給五千円で?」
「いや」
「じゃ、時給五千円?」
「そんなわけないじゃん」
呆れたように男が鼻を鳴らす。
「わけわかんね。五千円ぽっきりは、いったいなんなんだよ!?」
頭がこんがらがってきた。
時給でもなく日給でもない。
だったら成功報酬?
歩合制?
考え込んでいると、
「で、どうする?」
男が話の流れを無視して聞いてきた。
俺は頭を整理する為に、ゆっくりと口を開く。
「俺に探偵を手伝えってことだろ?」
「ちょっと違う」
とりあえず無視する。
「で、五千円ぽっきりなんだろ?」
「それはそう」
これは合ってる。
「時給でもなく、日給でもないんだろ?」
「まぁね」
ここが問題。
週給?
月給?
「安くないか?」
「安いよねー。出血大サービスだもの」
得意そうに男が笑った。
何故そうなる?
「君、学生?」
「いや、フリーターだけど」
「大学の学費って、いくらか知ってる?」
「行ったことないから知らないけど、三百万くらいじゃね」
「専門学校は?」
「ニ百万くらいじゃねーの?」
何気なく答えると、男はふむふむと一人で頷き、
「ほら、やっぱり五千円ぽっきりならお得だね」
俺には話の流れがよくわからなかったが、三百万やニ百万という金額からすると、五千円というのは破格の値段に思えた。
ぽっきり、という言葉がぴったりのように。
「じゃ、決まりだ」
男は俺が持っていた名刺を自然な動作で掴み、どこからか出したペンで名刺の裏に11桁の数字を書いて、再び俺の手に押し付けた。
「はい、これで君は今日からボクの一番弟子だ。授業料は五千円ぽっきり。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
なんてことを言うはずもなく、俺は大きく息を吸い込み、ダッシュでその場をあとにしたのだった……。




