2.傍若無人な彼女
「変な男に会った」
「うん、それで?」
「五千円ぽっきりって言われた」
「うんうん、それで?」
「……で、逃げてきた」
「ん? なになに? なんで逃げちゃってんの? 五千円はなんなのよ?」
きゅうりを刻んでいた一美が勢いよく振り返った。
右手に持っていた包丁を俺に向けながら、つかつかと歩み寄ってくる。
俺はソファーの上から一瞬腰を浮かしかけ、「待て待て」と両手で一美の右手を掴んだ。
「わかったよ。ちゃんと説明するから、とりあえず包丁を置けよ」
「わかればいいのよ。まったく|一生≪かずき≫はいつも言葉が足らないんだから」
聞いている方の身にもなってよね、なんてぶつぶつ言いながら、キッチンに戻っていく。
トントントン、ときゅうりを刻むことを再開し、「で?」と一美が話の先を促した。
俺は数時間前の記憶を手繰り寄せ、一部始終を一美の背中に話して聞かせた。
サラダ、ミートソース、それぞれの皿を一美がテーブルの上に並べ終え、俺は代わりに名刺をテーブルの上に置き、
「――で、逃げた」
で話を締めくくる頃、一美はレタスの最後の一切れを口に入れたところだった。
喋り疲れて喉が渇き、俺はウーロン茶を一気に飲み干した。
一美が2Lのペットボトルを手渡してくれるのでコップに勢いよく注ぎ入れると、中の氷が茶色の液体の中でくるくると踊った。
一美はミートソースを器用にフォークに巻きつけながら、「んー」と呟き考え込み一言。
「探偵の弟子、なっちゃいなよ」
「やだよ。怪しいし」
即答する俺。
「なんでよ? 面白そうじゃない」
パスタを口いっぱいに頬張り、フォークの先端を俺に向けてくる。
この女、手当たり次第に物を人に突きつける癖がある。
何度言っても直らない。
けれど、言わなければ一生直らないので、
「フォークを人に向けるな」
身体をずらし、フォークの軌道から左に避けた。
「えー、楽しそうだと思うんだけどな。コンビニのバイトなんかよりずっと」
不満そうに眉間に皺を寄せ、一美が顔をしかめる。
こいつは、何かにつけて俺のアルバイト先であるコンビニを否定する。
何故だかはわからないが、これもいつものこと。
「だって、五千円払うんだぜ? お金、取られるんだぜ? バイトとは違うだろ。給料入ってこないし」
「お金なんかどうだっていいのよ。それにコンビニのバイトなんてしなくたって、一生、あたしのパパからお金もらってるじゃない」
痛いところをついてくる。
俺は玄関にある小さな機械に眼を向けた。
「じゃ、決まりね。明日その電話番号に電話して、探偵の弟子になること」
そう告げると、それで会話は終わりとばかりに、一心不乱にミートソースを食べることに集中しだした。
本当に自分勝手な女だ。
どうしてこんな奴と付き合っているのか、たまに自分のことがわからなくなる。
身体を後ろに倒し、両手をフローリングの床に付いた。
部屋を見回してため息をつく。
それにしても広い。
無駄に広いと言っても良いくらいだ。
出会ったばかりの頃、部屋の間取りを聞いたことがあった。
一人暮らしだと言われれば、話の流れでは当たり前のように出てくる質問だろう。
「1ルーム? 1LDK?」
確かこんな感じの質問をしたと思う。
それに対する答えが「2DK」だったら、「部屋数多くていいな」と答えただろうし、「1ルーム」だったら、「まぁ、一人で住むんだし一部屋あれば十分だよな」と答えただろう。
それで一美の答えはというと、
「部屋は一つだよ。でも、そこそこ広いよ」
というものだった。
『そこそこ広い』という言葉から連想し八畳、九畳くらいなんだろうな。
俺は勝手にそう解釈して、「へー、広くていいな」と答えたのだが……。
初めてこの部屋に足を踏み入れた時、その考えが間違っていたことを知った。
玄関を開けた段階で、ほんの少し自分の予想と違うことを覚悟したのだが、たった三歩の廊下を抜けた目の前には、だだっ広い空間が広がっていた。
試しに部屋の壁から壁まで歩いてみると、三十歩かかった。
「ここ何畳あるんだ?」
聞いてみたが、
「よくわからない」
と返された。
あとから知ったのだが、なんと三十畳くらいあるらしい。
確かに部屋は一つだけど……質問の仕方はよく考えなければいけないということを痛感させられた出来事だった。
その無駄に広い部屋の住人は、何故か頭を左右に振りながらモゴモゴと口を動かしている。
胸の辺りまである長い黒髪は、ラインストーンが散りばめられた口ばし型のダッカールで一つに纏められている。
大きな目に長い睫毛、小さな鼻に小さな口。
黙っていれば美少女と言える。
ただ……性格が悪い。
すこぶる悪い。
もはや病気とも言える。
病名は自己中心的症候群。
世界で自分が一番偉いと思っている、かはわからないが、少なくとも自分の周りに限っては、自分を中心に回っていると思っている。
いや、思い込んでいる。
この恵まれた外見と、父子家庭だという父親の教育方針に間違いがあったのだろう。
俺はそう思う。
そう確信している。
なら、なんでそんな女と付き合っているのかというと……好きになってしまったのだから仕方がない。
例え最初は分厚い猫を被っていて騙されていたとしても……。
「なに?」
フォークを回す指を止め、一美が小首を傾げてきた。
「なんでもないよ」
俺は自分の境遇を呪い、またほんの少しの幸せを感じながら、ウーロン茶を一口含んだ。
「なんなのよ!」
一美がフォークを振り回し、飛んできた赤いソースが頬についたことにため息をつきながら。
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