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レミュエルへの寓話  作者: 辻ヶ瀬
1.黒い羊と白い象
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03

 自分が好きな小説を、等しく好んで読む人物がいたとして、必ずしも価値観が同じわけではない。

 昔わたしにそう言ったのは、誰だったか。

 今更その言葉を噛み締めることになろうとは、まさか思わなかった。


「へぇ、じゃあ雛川は古典だけでなく海外小説も読むんだ」

「はい、少しは。といっても大体同じ作者のものばかりですけれど」

「海外小説は読みにくいってよく聞くけど。おすすめは誰なの?」

「ハロルド・アストンとか、コリー・ウェズリーとかですかね」


 わたしたちは鵜久森氏の家へ向かう道すがら、とりとめもなくそんな話をしていた。

 話し合った結果、結局わたしも鵜久森蓮介という人物に会いに行くことになった。誠に不本意ながら。


 一応その旨を連絡したほうがいいのではないか、と先輩に提案したものの、どうやら彼は鵜久森氏の連絡先を知らないらしい。その事実に頭を抱える。

 突然の訪問だなんて、あまりにも失礼だ。やっぱり行かないほうがいいのではないか。

 けれど先輩はわたしのそんな悩みを打ち消すように、再度好奇心をくすぐってきたのだ。

「あー、そういえば鵜久森はイギリス文学に精通してたけど。雛川も興味あったりする?」


 ……本当に、この人の手の上で踊らされているんじゃないか。そう思ったのは何度目だろう。


「でもやっぱり一番好きなのは、R・E・ローウェルかな。彼、一冊しか本を出していないんですけど、その処女作が衝撃的過ぎて。紙面上で動いていることなのに、やけに生々しくて現実的リアルなんですよね」

「俺も読んでみたいけど、海外小説はどうも肌に合わないんだよね……。何ていうんだろう、“差異”かな。一々気になっちゃって。結局簡単に言えば文化の違いってことになるんだろうけど」

 確かに滲み出る文化の違いは、いくら意訳しようともぬぐいきれないものかも知れない。その“差異”をあまり感じないのは、やはり海外生活の経験があるからだろうか。


 海外生活といってもまだ幼い頃、小学校に入る前までだ。それに一年半という短い間だけ。

 わたしは英国で暮らしていたことがある。あまりはっきりとした記憶はないが、ビッグ・ベンの鐘の音を聞くことが出来る家で、十五分ごとに鳴る鐘の音に耳をすませていたのは覚えている。

 日本の小学校に入学することになり、帰国後に学校のチャイムを聞いたときは、あの鐘の音が恋しくなったものだ。


 揺られていた電車を降りてホームへ降り立つと、谷先輩はアイビーグレーのコートの襟を立てた。

「さすがに冷えてきたね」

 ポケットに両手を入れた先輩の隣に立ち、揃って夕闇が迫りつつある空を仰いだ。陽炎のようなぼんやりとした月が既に見えはじめている。


 電車がホームを出て行くと改札口に向かって歩き出した先輩の後を追う。駅前ではバスがエンジンを唸らせて待っていた。わたし達が乗ると、まもなく発車した。

「鵜久森さんって、どんな方なんです?」

 先程からずっと気になっていた事を訊ねてみる。バスの中にはわたし達の他に、首をうつらうつらさせながら寝ている年配の男性しかいなかった。


 前の席に座っていた先輩は、ちらりとこちらを見てから窓の外に視線を向けた。

「どんなって言ってもなぁ。先に言った通りちょっととっつき難くて頑固者、でも見識は驚くほど広いよ。文学然り、芸術然り、医薬学然り、語学然り、上げたらきりがないけど何かしらは一家言持っている。普段何して食ってるのか俺は知らないが、只者じゃないね」

「働いていないんですか?」

「そこら辺もよく知らない。鵜久森が警察に協力した事件は過去に一、二件あったらしい。けどその報酬だって、ボランティアと呼んだ方が似つかわしいくらいささやかなものだったらしいし」

「警察の方が出し渋ったとか? それともあまり成果が芳しくなかったんでしょうか……」


 けれど先輩はとんでもない、と大きく首を横に振った。

「いや、寧ろその逆だよ。親父達の方はもっと出すと言ったんだけど、頑なに受け取らなかったって聞いたよ。けれどさすがにただ働きさせるわけにはいかなかったんだろうな。鵜久森のおかげで犯人特定まですんなりいってしまって、警察の面目は丸潰れなわけだしね」

 何はともあれ、と先輩は肩をすくめた。

「実際会ってみた方が早いんじゃないかな。細切れにして伝え聞いた人間ほど、実体から遠ざかってつまらないものはないから」



 バスを降りてからしばらく歩くと、閑静な住宅街に出た。小奇麗な家が続く中、不意に森先輩が立ち止まってここが彼の家だ、と指し示す。


 鵜久森氏の家は丁度突き当たりと見える角に位置していた。

 世話をしていた頃はさぞや美しかったであろうと想像できる庭が前面に出ており、その中に埋もれるようにして家が見える。残念ながら伸び放題になった芝生や木々は色が落ち、花壇には土が盛り上がっているばかりだ。

 アーチ状の門の中央に口を開けたようにしてる石段を登っていくと、思っていたより小さな洋館風の家がひっそりと建っていた。


 先輩が何の躊躇いもなく玄関のドアへ手をかけたのを見て、さすがにわたしも声をかけた。

「先輩、勝手にお邪魔していいんですか。チャイムとか鳴らしたほうが……」

「あー、いいのいいの。本人から勝手に入って来ていいって言われているから」

 それにチャイムないでしょ、と言われてみて初めて呼び鈴らしき物がどこにも存在しないことに気づいた。あまりにも無用心過ぎやしないか。


 お邪魔します、と小さく呟きながら先導する先輩の後をついて歩く。

 先輩は迷いのない足取りで部屋の前まで来ると扉を叩いて、中からの声を待ってから開けた。


 中の様子は荒れた庭から想像するよりもこぢんまりと整っていた。しいて言えば、物が少ない。正面には東向きの出窓があり、比較的快適そうだ。

 そして、窓の前には置かれた猫脚の肘掛け椅子に座り、頬杖をついて片手でティーカップを弄ぶ人影があった。


 ぬばたまのように暗い髪に、鋭い目。薄暗い部屋の中に浮かび上がる整った白い顔は、想像していたよりも相当若い。彼はすらりとした長身を椅子のクッションに深々と沈めながら、髪と似た色味の物憂げな目をこちらへ向けた。


「また来たんですか」

 呆れが混じった溜め息をつき、ひどく面倒くさそうに椅子から腰を浮かした。

「やあ、鵜久森。久しぶりだね」

「何しに来たんです」

「ご挨拶だな。折角友人が遊びに来てやったっていうのに」

「僕はそれを望んでいませんし、歓迎するつもりもありません。それに、――そちらの女性は誰です」


 急に彼の鋭い視線に晒され、居心地が悪い。明らかに歓迎されていない空気の中、先輩だけが明るい声を出して彼の肩を叩いていた。

「ほら、前に課題もらったでしょ。それの答え合わせをしに、ね」

「それと彼女と、何の関係が?」

「解読に彼女の力を借りちゃったから、連れてこないわけにもいくまいと思ってね。名前は雛川椿、俺の大学の後輩。――で、雛川。大体予想ついてると思うけど、彼が鵜久森蓮介ね」

「……初めまして」


 挨拶をしたわたしを愛想も何もない厳しい目つきで見た鵜久森氏は、いかにも面倒くさいことになった、と言わんばかりに顔を顰めた。

「何故彼女をここに連れてくる必要が? それに、僕は考えるとは言ったが、実際教えるとは言っていません」

「連れてきたのは面白そうだなーと思ったから。雛川も英語が得意で、海外小説とかよく読むんだって。前にこの家来たとき、英語の本をたくさん見た覚えがあったから、お二人さん気が合うかなぁと」

 それに、と先輩はコートのポケットから例のメモを取り出した。


「正直、もう君から事件情報を聞くのは諦めてる。結局自力じゃ解けなくて雛川に教えてもらっちゃったし」

「あれだけ粘っていたのに、随分と潔いのですね」

「“人間は、生来、信じやすくて、疑い深く、臆病で、向こう見ずである”って言うからね。俺だって潔くて執念深いのは、当たり前だろ?」

「また、パスカルですか。……身を引いたのは、てっきりその内容が理解できて、僕の意図が伝わったからだと思いました」


 鵜久森氏はメモ紙を受け取り、目を細めてそれを見る。

「貴方はいい加減、確定していて面白くもない“死”を追わず、今ある不確かな“生”を自分なりに生きたらどうです? 事件なんてもの、後から幾らでも知ることが出来るでしょう」

 彼の言葉に先輩は少しだけ目を見開いた。


「君にそんなことを言われるとはね。なんだ、そんなことが言いたかったのか。それなら何もこんな回りくどい真似をしなくてもよかっただろうに」

「あの時こう言ったとして、納得してもらえましたか? 一旦お引取り頂いて、頭を冷やしてもらおうと思ったんですよ」

「……まあ確かにそうだろうけど。相変わらず憎まれ口を叩くなぁ」

「皮肉で言っているわけではありませんが」


 かさりと鵜久森氏がメモ紙を机に置く。と、不意に机の上のティーカップに目が止まった。

 彼が飲んでいたものと、もう一つ、紅茶が注がれたまま手をつけられていないであろうもの。何故二つあるのだろうか。

 もしかしたらわたし達の前に来客があったのか?


「もしかして誰かいらっしゃってました?」

 わたしが唐突にそう聞くと、彼は訝しげにこちらに視線を移した。

「何故そんなことを?」

「ティーカップが二つあったので、先程までお客さんがいたのかと」


 はっとした表情をしてティーカップに目を移した鵜久森氏を見て、わたしはピンときた。

「ひょっとして、谷先輩のために用意していたものとか?」

「は? いや、そうではなく――」

「あ、そうだったのか。実は俺も気になってたんだよね、ティーカップ。何だよ、照れなくていいのに」

 釈然としない様子のまま、鵜久森氏はティーカップとわたし達とを見比べた。先輩が嬉しそうに鵜久森氏の背中を叩いているが、結構痛そうだ。



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