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第8話 嫉妬

 ――この舞台の間、翔さんよりも暁さんを優先する。どんな場面でも、絶対に翔さんじゃなくて暁さんを支持する。


 それが、暁さんに『俺を愛している演技』をしてもらうのと引き換えに、暁さんから俺に提示された交換条件だった。

 なんてことはない。ただ、翔さんよりも暁さんを優先するだけの、簡単な条件だ。

 でも、俺がそう思っていたのは、翔さんがまだ稽古に合流していなかったから、なのだろうか。


 今日の稽古から、翔さんが稽古へ合流することになった。

 演出家はようやく主人公の出演するシーンを本格的に稽古できることに、意気込んでいる。

 そして稽古が始まる時間になると、演出家は早速声を上げた。


「それじゃあ今日は、主人公のフィンが登場するシーンからやるよ。小日向くん!」


 そう言って、演出家が翔さんの方を見ると、その直後呆れたように顔を顰める。

 俺も演出家の視線の先を見れば、翔さんは美味しそうにおにぎりを食べていた。

 もう稽古開始の時間だと言うのに、マイペースにおにぎりを頬張りながら、翔さんは片手を挙げる。


「あの、これを食べ終わってからでも良いですか?」

「ダメ。早く立ち位置について」

「はーい」


 翔さんは丁寧におにぎりをしまうと、軽く肩を回しながら大人しく自分の立ち位置へ向かう。

 この人、本当に大丈夫なのだろうか。

 俺はそんな要らぬ心配をしたことを、すぐに後悔することになる。


 演出家の合図で、音楽が流れた。

 勇者フィンが、青の国『ルミナス』へ足を踏み入れたシーンだ。


 翔さんは一度目を閉じて、そして次に目を開いたとき、俺は少し肌がヒリつく感覚を覚える。

 一度目にすれば、決して忘れることの出来ない眼力。

 立っているだけでも、翔さんからは高貴さとオーラが溢れ出ている。


 誰もが、思わず目を向けてしまう、そんな存在感だ。

 翔さんは普段の発声とは全く異なるよく通る声で、正に『異国からきた勇者』としてその場に存在し、言葉を発していた。


「ここが『ルミナス』。噂通り、美しい国だな。戦争中とは到底思えない」


 そう言って、翔さんは一歩前に出る。

 たったの一歩、自分の方へ彼が近づいただけで、俺はドキッと心臓が高鳴り、どこか嬉しさを感じた。

 俺じゃなくても、きっと誰もが同じ感想を抱くだろう。

 それほどまでに、翔さんには人を惹きつける魅力がある。


 いや、普段の翔さんももちろん魅力的な人だけれど、演技をしている翔さんは、明らかに雰囲気が違った。

 前に暁さんが言っていた、翔さんは役を自分に降ろすタイプだという言葉を、いま本当の意味で理解する。

 いま目の前にいるのは、演技をしている翔さんではなく、『フィン』そのものに見えた。



「――…はい、カット! いいね小日向くん、相変わらず台詞もバッチリだ」

「ありがとうございます、おにぎり食べても良いですか?」



 それから少しシーンを進めて、フィンとノアが出会う直前で演出家はカットを入れる。

 その瞬間、目の前にいたフィンは一瞬で、翔さんへと戻った。


 俺は、その演技の切り替えの速さに呆然としてしまう。

 もちろん共演者全員、俺からすればレベルの違う上手い人ばかりだ。

 それでも翔さんは、次元が違った。


 最近、どんな舞台でも引っ張りだこな理由を理解する。

 しかも、翔さんは才能だけではなく、見た目も正に主人公そのもので、主演に抜擢されるのも頷けた。


 そんなことを考えてしまい、俺は突如罪悪感を覚える。

 いま内心で、翔さんのことを凄く褒めてしまったような気がする。主演に選ばれるのも、当然だと思ってしまった。

 それは、暁さんに対する酷い裏切りのように思えてしまう。


 俺は、なんとなく横目に暁さんを見る。

 暁さんは霞鳥さんと談笑していて、特に不機嫌な様子もない。

 そもそも俺の内心が暁さんにバレる心配はないのだから、俺はほっと息を吐き出した。


 俺はまだまだ、自分の演技が未熟だと自覚している。

 愛されることも、愛することもよくわかっていない。わからないまま、演技をしている。


 少しでも分かるようになるため、暁さんには普段から俺を愛している演技を続けてもらわなくては。

 だから暁さんに見捨てられないように、俺は翔さんとあまり馴れ馴れしくしないようにしよう。

 俺がそう覚悟を決めている間にも、翔さんを中心に午前の稽古は終わっていく。


 昼休憩の時間になると、翔さんは当然のようにユウキさんの所へ歩いて行った。


「ユウくん、一緒にお昼行こう」

「あ、はい是非! えっと、鳴海はどうする?」


 そう言われて、俺はハッとした。

 思わず、暁さん達の方を振り返る。すると暁さんと一瞬目が合ってから、すぐにそらされて、暁さんは霞鳥さんに一声掛けるとそのまま二人で稽古場を出て行ってしまった。


 どうしよう。

 別に、翔さんと二人きりではないのだから、翔さんとユウキさんと三人でご飯を食べるくらい、何も問題ないはずだ。

 けれど、暁さんに提示されている『交換条件』が思わず頭を過ぎる。

 ここで翔さんとご飯へ行くのは、契約違反にならないだろうか。


 俺は、視線を彷徨わせた。

 そしてしどろもどろになりながら、どうにかこう口にする。


「えっと、俺は今日……一人で食べます。ちょっと気になっているお店があるんですけど、カウンター席しか無いし、一人で行こうかな……と」


 俺の言葉に、翔さんとユウキさんは目を見合わせている。

 そしてすぐに、ユウキさんが口を開いた。


「何か、俺たちに気を遣ってる?」

「そ、そうじゃないです!」

「もしかして俺、ナルくんに嫌われちゃった……?」

「そんなことないです! とにかく、今日は二人で行ってきてください!」


 俺がそう宣言すると、これ以上は良くないと思ったのか、ユウキさんは頷いてくれる。

 一方で翔さんがまだ残念そうにしてくれていることに、少し罪悪感を感じながらも、俺は二人を見送った。


 と言っても、俺は一人で行きたい店も、本当は特にない。

 適当にコンビニでご飯でも買ってきて、稽古場で食べるかと、俺は気疲れで深くため息をつくのだった。







「それで、そろそろ教えてくれても良いんじゃない」


 暁と宗介は、向かいの席に座ると、宗介がおもむろにそう切り出した。

 聞かれるだろうとは思っていたものの、暁はため息をつきつつ、いったん惚けてみることにする。


「なにを?」

「ナルくんのことだよ。随分過剰に可愛がってるけど、揶揄って遊んでるの? それとも、なにか他に理由がある?」

「……」


 いつか、宗介から問い詰められることは覚悟していたが、暁は思ったよりも遅かったと感じていた。

 もうすぐ12月に入る。つまり1ヶ月ほど放っておいてくれた計算だ。


 暁は、宗介から聞かれたら、初めから正直に答えるつもりだった。

 だからこそ、それ以上は惚けることなく本当のことを伝える。


 鳴海に、翔のことを嫌っていることがバレていたこと。

 そしてそのことを知った上で、自分に『取引』を持ちかけてきたこと。

 交換条件と共に、その取引を受けたこと。

 そうして今は、鳴海のことを恋人のように愛している演技をしていること。


 全てを話し終えると、宗介は呆れたような表情で固まっている。

 しかし気を取り直すと、すぐに叱るような声を上げた。


「何それ、全然タッキーが不利じゃない!? そんなことしてあげるメリットってあるの!?」

「……鳴海が翔に懐かなくなる」

「それってそんなに重要!?」


 宗介のもっともな発言に、暁はグッと言葉に詰まる。

 鳴海から最初に『愛している演技をして欲しい』と言われた時、断ることもできた。

 けれど暁がそうしなかったのは、鳴海のことが気になったからだ。


 それはべつに、恋愛的な意味ではない。

 ただ鳴海が、自分の演技を簡単に見抜いてきたこと。そしてその上で、自分の演技に高い信頼を置いてくれたこと。

 演技に対して、純粋だからこそ境界線があやふやな鳴海のことが、どこか危うくて――放って置けなかった。


 けれど宗介の言う通り、交換条件に『翔よりも自分を優先するように』提示したのは、単なる翔への嫌がらせに近かった。

 誰からも愛されてなんでも手に入れる翔が、初めて共演する鳴海に懐かれなければ、きっと翔は複雑な気持ちになるだろう。

 たまには、愛されない側を経験してみろ。という翔への嫌がらせに、鳴海を利用しているに過ぎない。


 そう、暁は鳴海に利用されているし、鳴海も暁に利用されている。

 暁は自分たちの関係を、そう理解していた。


 宗介は、自分たちの注文した料理が運ばれてくると、お箸を手に持って「いただきます」と丁寧に挨拶をしてから箸をつけ始める。

 そして食事をしながらも、宗介は暁への小言を止めなかった。


「そんな条件出されて、ナルくん……翔くんとのシーンやり辛いんじゃない? 可哀想」

「別に、舞台上の演技にまで、文句をつけるつもりは無いよ」

「でもさ、最近のタッキー……演技中も様子がおかしいよね?」


 痛いところを突かれて、暁は食事の手が止まる。

 ゆっくりと宗介に目を向けると、宗介も心配そうな表情で暁を見ていた。


 二人は、暫し無言で目を合わせる。

 しかし先に目をそらしたのは暁なので、宗介は逃さないとばかりに言葉を続けた。


「俺、本当はナルくんのこと、タッキーに問い詰めるつもりなかったよ。でも今日こんな話をしているのは、タッキーが舞台上に私情を持ち込むのが珍しいから。どうしたの?」

「……どうしたんだろうな」

「はぐらかさないで、真面目に相談して欲しいんだけど」


 宗介は、完全に箸を置いた。

 それに合わせて、暁もいったん箸を置く。これは話すまで逃してもらえそうになかった。

 けれど宗介に相談するような内容なのか、よく分からない。


 宗介と暁が共演するのは、今回で5回目になる。

 初めて共演したときは、二人舞台――しかも内容はBLだというのに、正直二人はあまり仲良くなれなかった。


 2回目の共演は逆に大人数の舞台だったのでほぼ接点がなく、ようやく話すようになったのは3回目の共演からだと思う。

 なんとなく、互いの腹の内がわかってきて、本音で話せるようになってきた。

 宗介は人間観察が得意なので、暁が翔のことを苦手なことも、いつの間にか気がついていたらしい。


 それでも、深くは踏み込んでこない。

 そこが宗介のいいところだと、暁は友達として心から尊敬しているし、信頼している。

 だからこそ、暁はまだ自分の中でも上手くまとまっていないこの感情を、どうにか言葉で伝えようと試みた。


「……鳴海の演技に、ソウちゃんは何か――思うところはあるか?」

「ナルくんの演技? いや……俺は一緒のシーンが少ないし、まだ掛け合いも稽古してないから。でも、客席側から見ていても、ちょっと感じるものはあるよ」


 そこで一度言葉を切ると、宗介は水を一口飲む。

 そうして横目に暁の表情を窺いながら、少し様子を見つつ、宗介はこう口にした。




「ナルくんの演技ってさ、翔くんと――ちょっと似てるよね」




 宗介が同じことを思っていて、暁は安心するような、どこか複雑な感情で目を伏せた。

 もちろん翔ほど、洗練されてはいない。

 それでも確実に、鳴海は翔と似たタイプの役者だ。


 演技の最中、ふとした瞬間そこにいるのは『鳴海』ではなくなる時がある。

 まだ、いつもではない。恐らく鳴海自身が役に入り込んだ瞬間、彼は『ルカ』そのものになるのだ。


 暁は何度かその瞬間を味わい、そしてそのことに恐ろしさを感じていた。

 きっと鳴海がルカになる手助けをしているのは、自分だから。

 自分が鳴海を『愛している演技』を見て、鳴海は無意識にその演技を吸収して、自分のものにしている。

 その才能が、恐ろしい。


 ――暁はそれ以上に、演技だとわかっているはずなのに舞台上で鳴海(ルカ)に誘惑されると、理性を揺らされる感覚が、とにかく恐ろしかった。


 魔性の王子。鳴海は時折、完璧にその役を演じている。

 物語の設定に忠実に、ヴァルドを誘惑するルカの演技を正面から受けると、暁は演技ではなく本当の意味でその誘惑に飲み込まれてしまいそうな感覚に度々襲われていた。

 そして鳴海自身が、それを無自覚にやっていることが、どこか腹立たしい。


 鳴海は、あくまで演技なのだ。

 暁に対する好意も、誘惑しようとする気持ちも、本当は存在しない。完全に、自分と役を切り離しているタイプ。


 一方で、暁はルカを通して鳴海を見ていた。

 先ほどまで自分を誘惑してきた相手が、素に戻ると照れたように笑いながら、キスを「ドーナツの味がする」と言ってくる。

 その瞬間、暁は演技と現実の境目がわからなくなるほど――理性を揺さぶられた。


 まだ演技を始めて大して時間が経っていない鳴海に、ここまで感情を掻き回される自分自身に、暁は困惑している。

 こんなこと、長い役者人生でも初めての経験だ。


 暁は、舞台上の感情を現実にも引きずってしまっている。けれど鳴海は、役を演じている時と自分自身は、完璧に切り離している。

 鳴海と、演技に対する向き合い方や普段の感情面でギャップが生まれつつあることが、暁を悩ませていた。


 全てを吐露すると、宗介はなんと言ったらいいのか、言葉に迷っている様子だ。

 やがてどうにか言葉を選びながら、ゆっくりと口にする。


「俺から言えるのは、ナルくんと正直に、ちゃんと話した方が良いかも……って感じかな」

「……それはダメだ。鳴海は――上手くやってる。それなのに俺がこんなことを言ったら、きっと遠慮して今みたいなパフォーマンスが出来なくなるだろう。歳上として……先輩として、どうにかしないといけないのは、俺の方だ」

「じゃあ、どうするつもり?」


 宗介にそう聞かれて、暁は何も言えなかった。

 いつも暁の自問自答も、ここで答えが出なくなる。


 暁は、目の前に置いた箸を手に取る。

 そして「……食べよう」と提案し、食事を再開するのだった。







 午後の稽古は、フィンとノアのシーンが中心に進んだ。

 今までラブシーンは、ヴァルドとルカばかりだったので、俺はいつもイチャイチャを演じる側だった。

 だからこそ、イチャイチャいしている二人の演技を客席側から見ていると、少しそわそわするような気恥ずかしさを感じる。


 俺がルカを演じている時も、見ているユウキさんと霞鳥さんは同じような感覚だったのだろうか。

 そんな初めての感覚を味わいつつ、本日の稽古は終盤に差し掛かる。


 最後に稽古するシーンは、俺と翔さんのシーンだ。

 フィンがノアといい感じになっていることに気がついたルカが、兄を盗られたくない一心で、フィンを誘惑するシーン。

 けれどフィンにはルカの誘惑は通用せず、しかもノアにその現場を見られてしまい大喧嘩へ発展し、ルカは家出をするのだった。


 俺は翔さんと一緒に、アクティングエリアに立つ。

 このシーンのルカは、唯一の肉親であり無条件に自分を愛してくれたノアを失いそうで、焦っている。

 その結果、ノアを奪おうとしているフィンを、逆に自分のものにしてしまおうと、誘惑するのだ。


 つまり俺は今から、翔さんを、誘惑する。

 そう思うと、俺は横目に客席側で座る暁さんを見た。

 いや流石にこれは脚本なのだから、翔さんを誘惑する演技くらい許してもらわないと困るのだが、少し遠慮してしまいそうだ。


 しかし気を取り直して、俺はルカの気持ちを考える。

 ここでフィンの誘惑に成功出来なかったら、大好きな兄を失うと思え。

 この頃のルカは、自分の魅力を信じてやまないし、傲慢だ。

 そして、()()()()()()()()()()()()()()()


 ――そうスイッチを入れた途端、俺は先ほどまで暁さんに対する遠慮があったはずなのに、その感情が綺麗に消え去っていた。



 演出家の合図で、音楽が流れ始める。

 その瞬間、俺は偶然を装って舞台袖から飛び出すと、フィンにわざとぶつかった。


 倒れそうになるところを、フィンは抱き止めてくれる。

 「大丈夫か?」と優しく言葉をかけてくれるフィンに、俺は手を伸ばして彼の頬に手を添えた。


「はい、貴方が抱きしめてくれたから」


 そう言って、俺は笑う。できる限り妖艶に、可能な限り美しく。そう意識する。

 しかし、フィンは照れた様子もなく、軽く微笑んだ。

 そのことに、俺は少し焦りを覚える。


 どうしよう、全然乗ってこない。

 もっと上手くやらないと、もっと誘惑しないと。

 そう思いながら、俺はフィンの腰に片腕を回して、体を密着させる。


 上目遣いに見上げながら、弾むような声で俺はこう提案した。


「助けてくれたお礼をしないと」

「いや、必要ないよ」

「遠慮しないで、ほら……キスなら、減るものじゃないですから」


 そう言って、俺はゆっくりと唇に笑みを乗せる。

 じっとフィンの瞳を見つめて、キスを誘った。


 少しずつ、背伸びをして顔を近づける。

 顔が近づくにつれて、スローモーションのようにゆっくりと瞼を閉じていく。


 ――しかし、唇が触れる直前に、フィンの人差し指が俺の唇を押し返した。



「お兄さんを悲しませるようなことは、やめなさい」

「……っ!? 兄さんだって…いま僕に、兄さんの話をするのか!?」

「お兄さんの話をしたくない? それじゃあ私たちは、気が合わないようだね」


 その言葉に、俺は頭を殴られたようなショックを受ける。


 拒絶された。フィンを誘惑することに、失敗した。

 どうしよう。このままだと兄さんを、この男に盗られてしまう。どうしよう、どうしたらいい。


 俺は、ショックで後ろに一歩後ずさる。

 そんな俺を見るフィンの目は、冷たい。もう俺に対して、一縷の愛情も感じられなかった。


 ショックで、瞳に涙が滲む。

 そんな目で、見ないでほしい。俺はただ、愛情が欲しいだけなのに。

 ただ無償に愛してくれる、そんな相手が欲しいだけなのに。


 ――兄さんを、盗らないで。





 次の瞬間、何かが倒れる大きな音が響いて、俺はハッとすると弾かれるように、音のした客席側を振り返った。

 見れば、暁さんの隣で椅子が一脚倒れている。

 暁さんは、自分の方へみんなの視線が集まるのがわかると、申し訳なさそうに笑って言った。


「すみません、椅子を倒してしまって……続けてください」


 そう言いながら、暁さんは立ち上がる。

 言葉の柔らかさや表情とは裏腹に、暁さんは自分の手をきつく握りめていた。


 暁さんは倒した椅子を元に戻すと、そのまま無言で稽古場を後にする。

 その後を、慌てて霞鳥さんが追いかけていった。


 俺は、少しふわふわする頭で、よくわからないままその光景を見ていた。

 それがどこか遠くの場所で起きている、遠い世界の出来事のように感じてしまい、俺はすぐに慌てて頭を振った。


 違う、これは現実だ。現実で起こっていることだ。

 ようやく思考が芝居から戻ってくると、俺はもう一度暁さんが出て行った扉を見た。


 何が起きたのか、俺にはよく分からなかった。

 ただ、胸の奥に、理由の分からない不安だけが残っているような気がする。



 ――最後に見た暁さんの背中は、俺にとって何故か遠く感じてしまうのだった。

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