49 蠱惑の蜜
「なんだか嫌な予感がして夜会を抜けてきたんだけど、正解だったなぁ。ねぇゴードン、僕のソフィをどこに連れて行くつもりだったの? ねぇ!」
セオドアがゴードンの胸を靴の踵で小突く。ゴードンは苦しげな呻き声を最後に動かなくなった。
あーあ、とため息をつき、セオドアがソフィに向き直った。ソフィは尻餅をついたままずりずりと後ずさる。
「可愛いソフィ、どこに行くつもり?」
セオドアが楽しげな笑みを浮かべ、ゆっくりとソフィに歩み寄る。じきにソフィの背中は壁に当たった。
「ふふっ、もう逃げられないね?」
「こ、来ないで……!」
青ざめて震えるソフィを見下ろし、セオドアがうっとりと頬を染めた。
「あァ、いいね……本当にいい顔をするなぁ、ソフィは。僕はね、九年前のあの日から、ずぅっと君の虜なんだ……。この地下室で椅子に縛り付けられ、醜い火傷痕をつけられて、痛みと恐怖で涙を流す君を目にしたときからね。あのときの君は……はァ……全身の血が滾るほどに哀れで愛らしかった……。さぁソフィ、邪魔が入らないうちに僕の別宅に行こうね。誰にも侵されない、僕たちの愛の巣だよ」
セオドアがソフィの手を取り、音を立てて指先に口づける。ぞくりと全身が粟立った。
「いやっ、離して……!」
振り払おうともがくソフィの爪がセオドアの顔を掠めた。セオドアの頬に赤い線が走る。セオドアがわずかに眉を寄せた。
「いけない子だなぁ、ソフィは。やっぱり縛っておいた方がいいね」
言うが早いかセオドアは縄を取り出し、ソフィの両手首を縛り上げた。
「邪魔な化粧も落としてあげようね。君は素顔が一番素敵なんだからさ」
セオドアがハンカチで強引にソフィの顔を拭う。
「これでよし、と。気分はどうかな?」
にこにこと尋ねるセオドアを、ソフィは震えながら睨みつけた。
「こ、こんなことをしても、わたしの心は絶対にあなたのものにはなりません! わたしがお慕いするのは――」
セオドアの人差し指がソフィの唇に触れる。首を傾け、瞳孔の開いた目でソフィの顔をのぞき込んだ。
「あの忌々しいツァウバルの王弟だなんて言うんじゃないだろうね? 駄目だよソフィ。いくら寛容な僕でも、二人きりのときに他の男の名前を口にするのは許せないな。……仕方ない、あれを使うしかないか」
セオドアが上着のポケットから長方形のケースを取り出した。中には透明の液体で満たされた小瓶と、注射器。
「これはね、『蠱惑の蜜』というんだ。特別なルートで手に入れた、魔法使いの秘薬だよ。惚れ薬の類と言えばわかりやすいかな」
セオドアが小瓶を取り、ソフィの目の前に掲げて見せた。小瓶の中で液体がとろりと揺れる。
「使い方は簡単。ここに髪の毛でも爪でもいいんだけど、体の一部を溶かし込んでね、それを相手に摂取させるだけ。たったそれだけで相手の心を奪うことができるんだ」
言いながらセオドアは小瓶の蓋を開け、自身の頬に滲んだ血を指で拭い取り、小瓶の液体に浸した。途端に液体は沸騰したように泡立つ。その泡はすぐに収まり、それと同時に液体がその色を毒々しいピンクに変えた。
「心を奪うと言っても、ごく少量なら軽い好意を抱かせる程度だからね、誰も不審には思わない」
「まさか……」
不思議なほどにクラプトン家の人々が社交界で慕われていた理由。それはこの秘薬の効果だったのだろうか。セオドアは肯定するように小さく微笑んだ。
「一方で、一度に大量の秘薬を摂取させると、どうなると思う? 狂おしいほど相手を乞い求め、その人なしでは生きていられないほど依存させることができるんだ。……ああ、そうだ、いいことを教えてあげようかな」
セオドアが楽しそうに笑う。
「昨日ベリンダがね、この秘薬をあの王弟に飲ませたんだ。紅茶に混ぜて、かなりの濃度でね。さっき夜会であの男は、ファーストダンスをベリンダと踊っていたよ。今頃は皆の前で、ベリンダを運命の相手だと宣言しているんじゃないかな?」
「そんな……」
仲むつまじく寄り添う二人を想像し、ソフィの心臓がぎゅっと締め付けられる。
「ああ、そんな顔をしないで。ソフィには僕がいるよ。この秘薬で、あの男のことなんか忘れさせてあげる。だけどソフィは体質的に効きにくいのかな? 何度かお菓子に混ぜて与えてみたけど、少量じゃほとんど効果が感じられなかったんだよね。だからこうするのがいいと思うんだ」
セオドアはピンク色に輝く液体を注射器に移し替える。ソフィの左袖を強引にまくり上げると、肘の内側に注射針の先を当てた。ひやりと背筋が凍る。
「や、やめて……お願い……」
「少し痛いけど、我慢してね」
ぷつり、と針の先がソフィの肌を刺した。
ゆっくりと、禍々しいピンク色の液体がソフィの体内に侵入する。
痺れるような得体の知れない感覚が、じわじわと全身に広がっていく。
「ふふっ、震えてる。可愛いね……。大丈夫、すぐに楽になるよ。あの男のことなんか忘れて、僕のことしか考えられないようになるからね」
やがて薄いベールをかけたように、頭がぼんやりとしてきた。思考がうまくまとまらない。
「愛してる、ソフィ。絶対に君を幸せにすると誓うよ。僕のことだけを見て、僕が与える痛みだけに快楽を感じる身体になるよう、じっくり調教してあげるからね……」
セオドアの声が、甘く心地よく耳に染みこんでいく。セオドアが愛おしげにソフィの手を撫でる。セオドアに触れられたところが、ぞくぞくと疼くような熱を持つ。
(あい……あいしてる……? わたし……せおどあさま……あいしてる……)
焦点の合わない目でセオドアだけを見つめる。薄く開いた唇の端から唾液がつぅっと流れ落ちる。セオドアの笑みが深くなった。
「さぁ、言ってごらん、ソフィ。君が愛してるのは誰?」
「わた、わたしが、あ……あいし……」
そのときソフィの胸元で、ペンダントがピシリと小さな音を立てた。
次の瞬間、一陣の風が吹いた。立ち上った甘く優しい香りがソフィを包み込み、ソフィの頭のもやを徐々に晴らしていく。呼吸が少しだけ楽になる。
いまだ体の震えは止まらない。それでもソフィは、毅然としてセオドアの目を見返した。
「わたしがあなたを愛することはありません。わたしがお慕いしているのは、ジークベルト殿下です!」
セオドアが顔を歪ませ、右手を振り上げた。
「他の男の名を口にするなと――」
ソフィはぎゅっと目を閉じる。けれど予測した痛みは訪れなかった。
目を開けると、セオドアが手を振り上げた格好のまま動きを止めていた。
「は? え? うごけな……?」
突然体の自由を失ったセオドアの顔が、混乱と焦燥に染まる。
「眠れ」
涼やかな、それでいて圧のこもった声が響く。と同時に、セオドアが床に倒れ込んだ。
「ソフィ、無事か!?」
扉から駆け込んできた人の姿に胸が震えた。
「……ジークベルト様……」
張り詰めていた糸が切れたかのようにソフィの体がふらりと傾ぐ。
「ソフィ!」
ジークベルトがソフィの体を抱きとめた。
「遅くなってすまない。もう大丈夫だから……」
美しい紫の瞳が、ソフィをまっすぐに見つめている。
(ああ、お母さん……)
『きっと来てくれるわ。ソフィが困ったときにはきっと……』
幼い頃に聞いた母の言葉が脳裏に甦る。
美しい魔法使いが、遠慮がちにソフィの体を抱きしめる。
その心地よさに安堵して、ソフィは意識を手放した。




