41 ガゼボでの誘惑
翌日の白薔薇宮では、各国からの来賓を歓迎するための夜会が開催されていた。すでに夜は深まり、会場となったホールは、着飾った紳士淑女達の熱気に包まれている。
その中に、女官のお仕着せをまとい給仕をするソフィの姿もあった。
酒と香水の匂いが充満するホール内を、グラスの乗ったトレーを手にひっきりなしに行き来する。参加者から求めがあれば化粧室や休憩室への案内もする。それがソフィの役割だ。
ダンスに向かう紳士から空いたグラスを受け取り、ソフィは配膳室へと向かう。その途中、引き寄せられるように会場の反対側に目をやった。
ダンスの輪から少し離れた壁際の一角に、まるで豪華な花束のように、着飾った令嬢達が集まっている。その中心に、令嬢達の誰よりも麗しい男がいた。
輝くような銀の髪。すらりと背が高く均整の取れた体つき。ジークベルトは会場のどこにいても人目を引く。
ソフィが目にする限り、夜会が始まって以来、ジークベルトの周囲に人が絶えることは一瞬たりともなかった。誰かと談笑しているか、さもなくばダンスを踊っている。
めったに他国に赴くことのない魔法大国の王弟とあって、お近づきになりたいと考える貴族は多いのだろう。その上、「運命の相手を探している」となれば、皆が、特に未婚の令嬢達が彼を放っておくはずがない。ジークベルトもまた、積極的に夜会の参加者達と交流している様子だった。
今もジークベルトは、美しい笑みを絶やすことなく、令嬢達とのお喋りに興じている。彼が微笑みを向け、一言声を掛けるたびに、取り巻く令嬢達から黄色い声が上がる。
そんな令嬢たちの中に、ベリンダの姿もあった。他の令嬢たちを押しのけ、ジークベルトの隣を陣取っている。
今夜の夜会に、カナル王国からは上位貴族達が招待されている。伯爵位にあるクラプトン家の人々もそろって参加していた。
ベリンダが、隣に立つジークベルトに身を寄せ、何事かを囁く。ジークベルトがそれに笑顔で答える。ベリンダがうっとりと頬を染める。
遠くからその光景を眺めるソフィの胸が小さく痛んだ。
密かに身に着けているペンダントに、服の上からそっと手を当てる。
昨日、これを付けてくれたときには手がふれるほど近くにいたジークベルトが、今はあまりにも遠かった。
(あの方が探していらっしゃる運命の相手。それがわたしなんかのはずはない。そんなこと、わかりきっているのに……)
やがてジークベルトがベリンダの手を引き、ホールの中央に進み出た。二人は手を取り合い、体を密着させて、軽やかにワルツのステップを踏み始める。
息の合ったダンスに、周囲の人々から感嘆の声が漏れた。
「まあ、なんてお似合いの二人なんでしょう」
「ジークベルト殿下の運命の相手というのは、ベリンダ嬢のことかもしれませんな」
見つめ合いながら踊る二人から顔を背け、ソフィは足早に配膳室へと向かった。
使用済みのグラスを預け、空のトレーを手に、重い足取りでホールへ戻ろうとしたときだった。
「やあ、ソフィ」
背後からかけられた声に、ソフィはびくりと立ち止まった。振り返った先で、セオドアが微笑んでいた。
「……セオドア様、何かご入用でしょうか?」
姿勢を正し、あくまで給仕として応じると、セオドアが寂しげに眉を下げた。
「ソフィの姿が見えたから声をかけただけだよ。でも……そうだな、せっかくだから案内をお願いしようかな。少々疲れてしまってね、静かなガゼボで一休みしたいと思っていたところなんだ」
「……かしこまりました」
わずかに躊躇いの後、ソフィは承諾した。休憩場所等への案内もソフィの仕事だ。それに、あの二人が踊っているであろうホールに戻るのは気が重かった。
セオドアを先導し、庭園の小道を進む。整然と整えられた庭園には、イザベル王妃のために何十種類もの薔薇が植えられている。
楽団の奏でる音楽と人々のざわめきがしだいに遠ざかる。等間隔に設置されたランプの灯りに照らされ、歩く二人の影がゆらゆらと揺れる。
庭園は夜会の参加者のために開放されている。涼みに出ている者もいるようだが、人影はまばらだ。
いや、ガゼボや薔薇の茂みの陰に、確かに人はいるのだ。いるが、皆、気配を押し殺している。くぐもった男女の囁き声。苦しげな、それでいて甘い吐息。その合間に混じる抑えきれない嬌声。
そこかしこの茂みで彼らが耽っている行為の正体にようやく思い至り、ソフィは体を強張らせた。こんな場所にセオドアと二人きりで来てしまったことを、今さらながら後悔する。
(早く案内を終えて、ホールに戻ろう……)
足を速め、さらに小道を進んで、ようやく先客のいないガゼボに辿り着いた。
「……では、わたしはこれで失礼いたします」
一礼して引き返そうとしたソフィの右手首を、セオドアが掴んだ。びくりと体が震える。
「待って。少し話をしようよ、ソフィ。久しぶりに二人きりになれたんだからさ」
「いえ、仕事中ですので……」
ソフィは掴まれた手をそっと引こうとしたが、セオドアは離さなかった。
「少しくらい大丈夫だよ。誰にもわからないさ」
「そういう問題ではありませんから……」
するとセオドアが小さくくすりと笑った。
「ふふ、ソフィは真面目だね。それに、王妃殿下の侍女に抜擢されるなんて、ずいぶん頑張ったんだね。……だからさ、もうそろそろいいんじゃないかな?」
「……いい、とは?」
セオドアの言葉の意味がわからず聞き返す。
「もうクラプトンの屋敷に戻ってくればいいんじゃないかな、てことだよ」
「……は?」
「一年も王宮に勤めたんだ。もうじゅうぶん罰は受けたと言えるよね? それに、父上も母上も、今ではソフィをクラプトン家の一員と認めてる。ソフィが戻りたいと願えば、駄目とは言わないと思うんだ。もちろん僕も父上に口添えするよ。だから、ね? 侍女の仕事なんか辞めて、僕たちの家に戻っておいでよ」
「……」
セオドアの甘い微笑みを前に、ソフィは言葉を失っていた。言葉の意味はわかっても、理解が追いつかない。
(セオドア様は、わたしがあの家に戻りたがってると思ってらっしゃるの? まさか、そんなこと……)
ソフィがあの家でどんな目に遭っていたか、セオドアは全部知っているはずだ。クラプトン家を出たいと、セオドアに泣きながら訴えたこともあるというのに。
「……あの、セオドア様。わたしは王宮での仕事を続けたいと思っています。ですから――」
「そんなふうに意地を張るものではないよ、ソフィ」
困ったように眉を下げ、駄々っ子を宥めるように言われて、ソフィは再び唖然とする。セオドアは、こんなにも話の通じない人だっただろうか。
「王宮の仕事なんか続けてどうするのさ。……ああ、もしかして結婚相手を見つけようとか思ってる?」
「いえ、そうでは――」
「残念だけど、それは難しいんじゃないかな。この王宮に、ソフィの火傷痕のことを知らない人はいない。知っていてソフィを娶ろうなんていう奇特な男はいないと断言できるよ」
「……それは、わかっています」
うつむき、自由になる方の手で、服の上からペンダントに触れた。
「わかってるなら、今すぐ戻っておいでよ。前にも言ったけど、僕は……僕だけは、いつだってソフィの味方だからね。絶対にソフィを見捨てたりなんかしないよ」
ぎりっと手首を掴む手に力がこめられ、ソフィは顔をしかめた。
「もしクラプトンの屋敷で過ごすのは気が引けるというなら、約束どおり連れ出してあげる。僕の別宅へ来ればいい。……ああそうだ、それがいいね、うん、そうしよう。今度は絶対に誰にも邪魔なんかさせるもんか……」
瞬きもせずソフィに焦点を合わせたまま、ブツブツと独り言のように喋り続けるセオドア。掴まれた手首にギリギリと力がこもる。ぞくりとソフィの全身が粟立った。逃げなければと、ソフィの本能が警鐘を鳴らす。
「セオドア様、は、離してください……」
青ざめた顔で声を震わせるソフィを見つめ、セオドアがうっとりと青の瞳を蕩けさせた。
「あァ……ソフィは本当に可愛いなぁ……。ねぇ、もっとよくその顔を見せてよ」
セオドアが手をのばし、ソフィの左頬に触れた。びくりと肩が震えてしまう。咄嗟に顔を背けようとしたが、強い力で顎を掴まれ阻まれた。セオドアはますます笑みを深め、顎を掴んだまま親指の腹でソフィの左頬を撫でた。
「こんな化粧なんか、しなくていいんだからね。僕の前では自分を偽らないで、素顔を見せてほしいな……」
化粧を擦り落とそうとでも考えているのか、左頬を撫でるセオドアの指に力がこもる。
「やめて……離して……」
「うん、いいよ。今すぐ仕事をやめて僕のもとに戻ると、ソフィが約束してくれたらね」
セオドアの笑みは揺るがない。
(そんな……そんな約束、できるわけない……!)
ぎゅっと唇を引き結び、ソフィはセオドアの手を振りほどこうと腕に力をこめる。けれど逆に引き寄せられ、あっと思ったときにはセオドアの胸に飛び込む形になっていた。掴まれていない方の手で押しのけようとするが、セオドアの体はびくとも動かない。
「ふふ、ソフィは悪い子だなぁ、そんなふうに僕を煽るなんて。あァ……初めての口づけは素顔でと決めていたのに、ソフィが悪いんだからね……」
セオドアの微笑みが近づいてくる。顎を掴まれたソフィは顔を背けることすらできない。セオドアの熱い吐息が頬に触れる。震えながらぎゅっと目をつむった、そのときだった。
「そこまで」
突如、至近距離で、涼やかな声が静かに響いた。




