40 思惑
「いえ、聞いたことはありませんが……」
「あるいは『灰色の魔法使い』」
「い、え……」
知らない名だ。けれどその言葉の響きから、灰色のローブをかぶった男の姿が脳裏を掠め、ソフィの胸の奥がひやりと冷たくなる。
「では、過去、魔法使いに会ったことは?」
ソフィはひゅっと息をのんだ。灰色のローブの男の姿が、頭の中でくっきりとした像を結ぶ。
どくどくと嫌な音を立てる胸を押さえ、ソフィは「ありません……」と掠れた声で答えた。ジークベルトが目を眇める。
「もう一つだけ聞こう。ソフィ嬢、その顔の火傷痕の原因は?」
「!」
その瞬間、息が止まりそうになった。ソフィはぎゅっと自身の胸を掴み、ふるふると首を横に振った。
「ごめんなさい、言えません……」
息苦しさに涙が滲む。護衛騎士が不審げに眉を寄せた。ジークベルトは冷徹な眼差しをソフィに注いでいる。
「ソフィ嬢、すまないが少し顔に触れるよ」
ジークベルトがソフィの顔に手をのばしたそのときだった。
「ソフィ、お客さんかい?」
かけられた声に、ジークベルトの手はソフィに触れる直前で止まった。
立っていたのは王妃の往診から戻ってきたアルマだった。ジークベルトはのばしかけた手を引っ込め、ソフィから距離を取る。
アルマはジークベルトの姿を見るやぎょっと目を見開き、涙目で震えるソフィを背に庇うような位置で腰を落とした。
「この王宮で薬師を務めております、アルマでございます。ツァウバル王国のジークベルト王弟殿下とお見受けいたします。アタシの弟子が何か失礼をいたしましたでしょうか?」
アルマの口調は丁寧だが、ギョロリとした目は油断なくジークベルトに向けられている。
ジークベルトは整った笑みでこれに応えた。
「ああ、ご心配なく。昨日、こちらのソフィ嬢に化粧の実演を披露していただきましてね。その素晴らしい腕前を称えていたところなのです。ソフィ嬢の作った化粧水も素晴らしかった。師匠であるあなたの指導が良いのでしょうね」
ジークベルトの褒め言葉にも、アルマの表情がゆるむことはなかった。
「お褒めにあずかり光栄でございます。昨日のことも聞き及んでおりますが……。無礼を承知で、この子の師匠として殿下にお願いがございます」
「なにかな?」
「ソフィに中途半端に関わるのはご遠慮いただけないでしょうか。それでなくてもこの子は、やっかみを受けやすい立場におります。殿下の気まぐれで、この子を難しい立場に追いやることはどうぞお控えください」
ジークベルトは小さく苦笑した。
「アルマ殿といいましたか。あなたは本当に良い師匠のようだ。お約束しましょう。気まぐれで中途半端にソフィ嬢に関わることはしないと」
アルマはなおもジークベルトの目をじっと見つめていたが、深く息を吐き出し跪いた。
「ひとまず信じることにいたします。どうぞ非礼をお許しください」
「いや、構いません。どうぞ顔を上げてください」
「寛大なお心に感謝申し上げます」
アルマが立ち上がり、ハラハラとやり取りを見守っていたソフィはようやくほっと息をついた。
「ところで……エルヴィーラ様――前塔主様は息災でいらっしゃるのでしょうか?」
アルマの問いかけに、ジークベルトがおやと眉を上げた。
「大叔母は塔主の座を退いた後に病を得ましてね。今は静かに過ごしていますよ」
「そうでしたか……あのエルヴィーラ様が病を……」
アルマがしんみりと呟く。
「魔法使いとて不老不死ではありませんから。……アルマ殿は前塔主――私の師匠と面識がおありなのですか?」
「もう五十年近く昔の話でございます。若い時分に、エルヴィーラ様に小間使いとしておそばに置いていただいたことがございました」
ああと呟き、ジークベルトがうなずいた。
「大叔母から聞いたことがありますよ。かつて一度だけ、カナル人の薬師を弟子にしたことがあると。たいへん熱心で優秀な弟子だったと聞いていますが……アルマ殿がそうでしたか」
アルマの目がじわじわと見開かれる。顔を覆う両手の隙間から、「おお……」と呻くような声が漏れた。
「弟子と……あの御方がアタシを、弟子と呼んでくださいましたか……」
アルマの声は涙で震えていた。
◇
「いやぁ、殿下が相手だというのに遠慮のないばあさんでしたね」
アルマの家からじゅうぶんに離れたのを見計らい、ギードが口を開いた。
「中途半端に関わるなと、釘を刺されてしまったね」
ジークベルトが口元をゆるませる。
「あの大叔母様が気に入って弟子にしたのもわかる気がするよ。言われずとも、中途半端に関わるつもりなどないさ。ふふ……もしかしたらあの薬師殿が一番の障害になるかもしれないな……」
「そうですね。他国の王宮内で手荒なことはなるべく避けたいところですが、いざとなればソフィ嬢を拘束してでも――」
「おや、ギードは女性を拘束する趣味があるの?」
「は?」
「見かけによらないね。人の趣味に口を出すのは野暮かもしれないけれど、個人的にはどうかと思うな」
「はぁァ!?」
素っ頓狂な声を上げ、ギードが顔をしかめる。
「そんなわけないでしょうが。人を変態みたいに言うのやめてもらえません? 何の話をしてるんですかいったい。そうじゃなくて、彼女、我々が追う『灰色の魔法使い』クヴァルムを知ってるんじゃないですか? 明らかに様子がおかしかったでしょう?」
「いや。ソフィ嬢はクヴァルムという名も『灰色の魔法使い』という通り名も聞いたことはないようだった。密かに看破の魔法を使ったからね、嘘をつけばわかる」
「お、さすが殿下」
「ただ……ソフィ嬢は一つだけ嘘をついていたね。彼女は過去に魔法使いに会ったことがあるようだよ」
「……あの気の毒な火傷痕と、何か関係があるんですかね?」
「おそらくね。昨日彼女が化粧を落としたとき、あの火傷痕から魔力の気配が感じられたから」
「へぇ、気づきませんでした」
「ごくわずかだったからね。あれは、よほど魔力感知に長けた者しか気づけないだろう。ソフィ嬢はいつ、どこで、どのような魔法使いに会ったのか、奴と何か関わりがあるのか……。あの火傷痕に触れればもう少し何かわかったかもしれないが、邪魔が入ってしまったね」
「確かめる必要がありますね。それにしても、さっすが殿下。女の子をたらし込むのがうまいんだから。首尾よくソフィ嬢にペンダントを着けさせることに成功しましたし、おかしな動きがあればすぐにわかるでしょう。で、あのペンダントには何を仕込んであるんです? 盗聴魔法? それとも追跡魔法ですか?」
「いや、何も。ソフィ嬢に説明したとおり、香りを定着させてあるのと、それから守護の魔法だけだよ」
「は?」
ギードが不思議そうに目を瞬く。
「じゃあ何のために渡したんです? それも、あんな強引に」
「何のためにって、あの香りを好きだと彼女が言ったから、ただそれだけだよ」
「いやいやいや。あなた、ねだられたくらいで女性に物を贈るような人じゃないでしょうが。ましてや魔法石付きのアクセサリーだなんて特別なものを」
「うん、そうなんだけど、なんだろうね? 私の色のペンダントを身につけるソフィ嬢をどうしても見てみたくなって。思ったとおり、よく似合っていたよね」
麗しい微笑みを口の端に浮かべるジークベルトを、ギードがぽかんと見つめる。
「えっ、ちょっとまさか殿下、もしかしてソフィ嬢のこと……」
「なに?」
ジークベルトが不思議そうに首をかしげた。
「うっそ……自覚ないんですか? うわー」
「だから、なに? はっきり言いなよ」
「いやぁ……俺が指摘するのは野暮っていうか、俺も半信半疑っていうか……」
気まずそうにもごもごと言葉を濁すギードを訝しげに見つめてから、ジークベルトは「ああ」とうなずいた。
「ギードの言いたいことはわかったよ。ふぅん……私には無縁の感情だと思っていたんだけど、なるほどね、これがそうなのか……。なかなかに制御が難しいものなんだな……でも、うん、悪くない気分だ……」
壮絶なまでに美しい笑みを浮かべるジークベルトの横で、ギードが「こわ……」と呟いて一歩身を引いた。
「ん? 何か言った?」
「や、なんでもないです。それより殿下、ソフィ嬢のことも気にはなりますが、社交の方もしっかりお願いしますよ」
「もちろん。あの先読みが正しいとすれば、この王宮に、あの男に迫る糸口があるはずだからね。せいぜい情報収集に励むよ」
「……先読みの話、公にしても良かったんですか? 運命の相手だなんて嘘までついて」
「別に私は嘘はついていないよ。なんせ十二年も追っている因縁の相手なんだ。運命と言えなくはないだろう? 女性だと勝手に解釈したのはあちら」
「うわ。絶対に確信犯ですよね」
「おかげで動きやすくなったよね。運命の相手を探しているというていで、王族から使用人まで幅広く接触しても不自然にならない。ご婦人方の視線が少々鬱陶しくはあるが、その程度のことは我慢しよう」
「ま、殿下が女性に群がられるのはいつものことですしね。噂が広まっているのか、さっそく謁見の申し入れやお茶会の招待が山ほど届いていますよ」
「イザベル王妃の誕生祝賀会まであと三日、すでに決まっている予定は明日の夜会だけだったね? 空いている時間に誰と会う予定を入れるか、これから部屋で朝食をいただきながら作戦会議といこうか」
「ですね。あ、そうそう、ソフィ嬢の叔父さんでしたっけ? クラプトン伯爵家からの招待状も届いていますよ」
「クラプトン伯爵家か……。単なる直感だけど、なんとなく気になるね」
「そうですか? 評判のいい一家みたいですけど」
「良すぎるんだよ、不自然なくらいにね。まるで『蠱惑の蜜』でも使ったようじゃないか」
ギードがはっとした顔になる。
「奴が得意とする秘薬……。なるほど、調べてみる価値はありそうですね」
「ああ、忙しくなりそうだ。……そうそう、ギード。忙しくなる私の代わりに、通信魔法で連絡を取ってもらいたい相手がいるんだけれど。至急、確かめたいことがあってね――」
ジークベルトがギードに小声で耳打ちする。ギードが驚いた様子で目を見開いた。




