39 ペンダント
ジークベルトが椅子に腰掛けると、白フクロウがふいに目を開け、音もなくリンデンの枝に飛び移った。それにつられたようにクーもソフィの肩を離れ、フクロウとは別の枝にとまる。
「あの、お話というのは……?」
「うん、昨日の化粧の実演について、もう少し君から話を聞きたくてね。素晴らしいものを見せてもらったよ、ありがとう。特に白粉の使い方には本当に驚かされたのだけど……あれは、誰から教えを受けたのかな?」
「誰、ということは……。あれは自己流なのです……」
「自己流? 本当に?」
ジークベルトが目を見開く。
「はい。あ、と言っても、ブラシと海綿の基本的な使い方は、初めにお友達のラナさんに教えてもらいましたし、そもそもアルマさんが道具を揃えてくださらなければできなかったことなので……」
「いや、謙遜することはない。本当にすごいことだと思うよ。君のような人がいるとは驚いたな……」
「あ、ありがとうございます……」
ジークベルトからの手放しの賛辞に、ソフィの顔に熱がのぼる。胸の奥がほわほわと温かくなった。
「それに、君が使っていた化粧水。気持ちが落ち着く良い香りだったね。私も好きな香りだ。あの化粧水も、君が作ったの?」
手作りの化粧水を好きだと褒められ、ソフィの胸がどきりと跳ねる。
「は、はい。アルマさんにご指導いただきながら……。亡くなった母が好きだった香りを再現したくて。全く同じにはならなかったのですが……あ」
そこまで言ってソフィは、ジークベルトがまとう香りのことを思い出した。今もジークベルトからは、母のまとっていたのと同じ香りが漂ってきている。
「あの……殿下は香水か何かを使っておられますか? ラベンダーと、いくつかの薬草を混ぜたような香りのものを……」
「ん? ああ、これのことかな?」
そう言うとジークベルトは、いくつか身につけていたペンダントの一つを外し、手の平に乗せてソフィに示した。
植物を象った複雑な意匠の銀細工の中心に、ジークベルトの瞳を思わせる紫色の石がはまっている。きらきらと輝く紫の石に顔を近づけると、ふわりと例の香りが強くなった。
「これです、母の香りです! あの、このペンダントはいったい……?」
「精油の香りを、この石に魔法で定着させているんだよ。私の師が考案したブレンドでね、私も気に入っているんだ。確かに君が作った化粧水の香りと似ているとは思うけれど……この香りが、君の母上の好んでいた香りと同じだというの?」
「はい。と言っても、幼い頃の記憶なので、勘違いかもしれませんが……」
「ふむ……。もしかして、君の母上はツァウバルの出身だったりするかい?」
「え? いいえ。……あ、いえ、母の出身地は知らないのです。何も聞いていなくて……。父がカナルの出身だったことも、亡くなった後に知りました」
「……お母上の名前は?」
「アンといいます」
「アン、か……。本当の名前なのかな?」
「だと思うのですが……」
そう答えながら、徐々に眉尻が下がっていく。生まれも育ちも知らない母。その上、名前まで本当でないなどということがあるだろうか。
(ううん、そんなはずない……)
ソフィは心の中で否定する。
(だって、お父さんはいつも、お母さんのことをアンと呼んでいた。愛おしそうに。お母さんも、ごく自然にそれに応えて……)
父と母との間に流れていた温かな空気。そこに嘘があったとは思いたくなかった。
「君の容姿は、お母上に似ているかい?」
「この黒髪は母譲りですが、顔立ちはどちらかと言うと父に似ていると言われていました。目の色も。母の瞳は薄青でしたので……」
「黒髪に薄青の瞳のアンか……」
ジークベルトは何事かを考えるそぶりを見せてから、ふいに、「そうだ」と美しい笑みを浮かべた。
「このペンダント、よかったら君にあげるよ」
「えっ?」
ペンダントとジークベルトの笑顔を見比べ、ソフィは目を瞬く。意味を理解し、慌てて胸の前で両手を振った。
「と、とんでもない! いただけません!」
「遠慮しないで。特に高価なものというわけでもないし」
「そういう問題ではありません!」
「君が探し求めていた、母上の香り。身につけていたいとは思わない?」
「それは……」
思わないと言えば、嘘になる。
「……ですが、わたしが殿下からペンダントをいただいたなどと知られたら、よく思わない方がいらっしゃいます。本当は、このように声を掛けていただくことすら……」
「例えば君の従姉殿とか?」
躊躇いながらソフィはうなずく。
「それに、他のお嬢様方もきっと……」
ジークベルトが小さくため息をついた。
「君を困らせたくはないのだけどね……。ああ、そうだ。それなら、皆に知られなければいいだけのことではないかな? 私も、そこのギードも、絶対に他言しないと誓うよ」
ね、とジークベルトが目を向けると、護衛騎士ギードが無言でうなずいた。
ソフィは視線を彷徨わせる。
「ですが、いただく理由がありませんから……」
「私が君に、どうしてもこのペンダントをあげたいんだ。……というのは、理由にならないかな?」
わずかに首をかしげ、ジークベルトがソフィの顔をのぞきこむ。銀の髪がさらりと流れる。ラベンダーのように甘さのある紫の瞳に見つめられ、ソフィは頬を染めて言葉を失った。
「よし、決まりだね」
ソフィの無言を肯定と受け取ったジークベルトが、にこりと笑う。
「じゃあ、さっそく付けてあげよう」
「じ、自分でできますから」
慌てて首を振るが、ジークベルトはさっさと立ち上がり、ソフィの背後に回り込んだ。
ペンダントを持つジークベルトの両手が、背後からソフィの顔の前に回される。後ろから抱き込まれるような体勢に、にわかに心臓が騒ぎ出した。
ジークベルトが、ペンダントトップの位置をソフィの胸の真ん中に合わせ、銀のチェーンの両端を持った両手を首の後ろに回す。後れ毛をそっと撫でつける大きな手の感触に、ソフィはびくりと体を震わせた。
「少しだけじっとしていて……」
「は、はい……」
ソフィはか細い声で応える。ドキドキと心臓が忙しない。
「このペンダントには、ごく弱いものではあるけれど護りの魔法を付与してあるからね。服の中に隠して、なるべく身に着けているといいよ」
耳元で響くジークベルトの声に、じわじわと頬が熱くなる。金具を留めるジークベルトの指が首筋を掠めるたび、そのくすぐったさに震えそうになり、ソフィはぎゅっと目をつむった。
「……ああ、よく似合っているね」
満足そうな声におそるおそる目を開けると、胸元でペンダントが輝いていた。懐かしい母の香りを感じ、ほっと口元がゆるむ。
「……ありがとうございます、殿下。ペンダントが香るたびに、母を近くに感じられる気がします」
小さく微笑み、傍らに立つジークベルトを見上げる。
「それは良かった。母上のついでで構わないから、私のことも近くに感じてくれると嬉しいのだけど」
とろけるような美しい微笑みを返され、ソフィは再び赤面する。
「ちなみにそのペンダントの香りは魔法で定着させたものだからね、持ち主の意思で香りの強さを調整することが可能なんだ。普段は全く香らないようにしておいて、感じたいときだけ香らせることもできるよ」
「それは、わたしにもできるのでしょうか?」
「うん、できるはずだよ。やり方は簡単。手でペンダントに触れながら念じるだけ。試しにやってごらん」
言いながらジークベルトはソフィの右手を取り、その上にペンダントを乗せた。
ドキドキしながら、手の平の上で輝くペンダントを見つめる。心の中でペンダントに語りかけるように、
(香りよ、消えて)
と念じると、先ほどまで感じていた香りが嘘のようにかき消えた。今度は、
(香りよ、わたしを包んで)
と願うと、ペンダントは再び甘い香りを纏う。
「すごい……! まるで魔法使いになったみたいです!」
目を輝かせてジークベルトを見ると、ジークベルトがにこりと微笑んだ。
「魔法に興味がある?」
「はい……あの」
ソフィは少しだけ言いよどむ。
「正直に言うと、魔法にも魔法使いにも、怖いイメージを持っていたのです。でも、昨日温室で見せていただいた殿下の魔法は、綺麗だと思いました。このペンダントにかけられた魔法も素敵だなって……。あの、そういえば、一昨日ここでお目にかかったときに髪と目の色が違ったのは、魔法で変えておられたのですか?」
「やっぱり私だと気づかれていたか」
ジークベルトが苦笑した。ソフィは小さくうなずく。
「ずいぶん印象が違いましたが……お顔立ちもお声も、それから香りも同じでしたので……」
「香りか……そこまでは気が回らなかったな。騙すつもりはなかったのだけど、この髪と目は目立ちすぎるからね。君に警戒されたくなくて、咄嗟に変えたんだ。ほら、こんなふうに」
ジークベルトがそう言ったとたん、ジークベルトの髪と瞳が焦げ茶色に変わった。瞬きする間に起きた変化に、ソフィは目を丸くする。
そんなソフィの反応を楽しむように、ジークベルトが口角を上げた。
「驚いた?」
「は、はい。魔法を使うには、何か決まった手順が必要なのかと思っていたので。呪文とか、魔法陣とか……。殿下が昨日、薔薇に魔法をかけたときも、こう……手を動かしておられたように見えたのですが……」
「ああ、昨日のあれはパフォーマンスだよ。私の場合、あの程度の魔法なら呪文の詠唱も何も必要ないんだけど、ああいう動きをするといかにもそれらしいでしょう?」
「パフォーマンス……」
「魔法というのはね、体内を流れる魔力を練り上げて形にすることで発動するんだ。呪文や魔法陣というのは、魔力を練り上げる手段の一つ。呪文を唱えなくても、適切に魔力を練り上げさえすれば、魔法は発動する。このあたりは、魔法の難易度とそれぞれの魔法使いの力量によるかな。私も、高度で複雑な魔法を発動するときには呪文や魔法陣を使うこともあるよ」
ジークベルトが言葉を切る。その次の瞬間、ジークベルトの髪と瞳は何の前触れもなく、一瞬にして元の色に戻った。
「……というのが魔法についてのごく初歩的な説明なんだけど、こういう話に興味はある?」
「はい……なんだかワクワクします」
「私のことはどう? 魔法使いだけど、怖くはないかな?」
ジークベルトが小さく首をかしげ、ソフィの顔をのぞき込む。その形の良い眉が不安そうに下がるのを見て、ソフィは勢いよく首を横に振った。
「こ、怖くないです! 殿下は――」
むしろ素敵です、と言いかけてソフィは慌てて口を言葉を飲み込んだ。
(な、何を考えてるの、わたしったら! わたしなんかがそんな馴れ馴れしいことを言っていい方ではないのに……)
ジークベルトは、「良かった」と嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ところでソフィ嬢、クヴァルムという名に聞き覚えはないかな?」
「え?」
唐突に変わった話題に、ソフィは目を瞬いた。




