29 王妃イザベル
その日ソフィは、定例の朝の往診に向かうアルマに伴われて家を出た。
早朝のまだ薄暗い中、使用人達が立ち働く静かな気配を感じながら、白薔薇宮の奥深くへと向かう。
慣れた様子で迷いなく進むアルマと違い、ソフィの足取りはふわふわとおぼつかない。
王宮に勤め始めてすでに九ヶ月ほどが過ぎたが、白薔薇宮の表側に行くのは初めてのことだ。ましてや王族の住まう最奥など、一生縁がないものだと思っていた。
限られた者のみが立ち入ることを許されるその場所で、これからこの国で最も高貴な女性に相まみえるのだ。
昨夜は緊張でなかなか寝付けなかったが、目は不思議なほど冴えている。
絵画や彫刻が至るところに飾られた廊下には、槍を手にした衛兵が等間隔で立っている。
見慣れない者に対する警戒心をはらんだ衛兵らの視線も、豪華な空間も、何かもが落ち着かない。
避けるように視線を落とせば、磨き抜かれた寄木張りの床に自身の影が頼りなく映った。
やがて、奥まった部屋の扉の前でアルマが立ち止まった。
衛兵に名前を告げると、衛兵はソフィにちらりと視線を向けてから、すんなりと中に通してくれた。ソフィが参上することは事前に伝わっているらしい。
アルマが王妃を問診し、今日の体調に合った薬草茶や薬を処方する間、ソフィは隣接する控えの間で待つことになった。
主に侍女が使う部屋のはずだが、そうとは思えないほどきらびやかな設えだ。
(クラプトン伯爵家のお屋敷も豪華だったけど、王宮はまた別格なんだわ……)
考えてみれば、王妃の侍女となれば例外なく貴族階級の出身だろう。
伯爵家の縁者とはいえ平民の身分にすぎない自分が、あまりに場違いに思えた。
ふと、控えの間の壁に設置された大きな姿見が目に入った。
そこに映るソフィの白い顔は緊張でこわばっている。
けれど、顔の左半分で禍々しくその存在を主張していた火傷痕は、影も形も見当たらない。
(大丈夫。ちゃんと隠せてる……)
鏡の中の自分とうなずきを交わし、大きく深呼吸した。
やがて、緊張と睡眠不足で胸のあたりが気持ち悪くなりかけた頃、アルマが呼びに来た。
背筋を伸ばし、けれど視線は落としたまま、アルマの後ろについて王妃の私室へと足を踏み入れた。
毛足の長い絨毯に足を取られそうになりながら、どうにか歩を進める。
部屋の中央に置かれたソファセットの近くで立ち止まったアルマにならって、ソフィも足を止め、その場で深く腰を落とした。
「ああ、アルマ。その子なのね?」
艶のある女性の声が耳に届いた。
「はい、イザベル様。弟子のソフィでございます」
「会えるのを楽しみにしていたわ。ソフィとやら、顔をお上げなさい」
「はい……」
掠れた声で応え、ソフィはそろそろと顔を上げた。
その途端、一人掛けのソファにゆったりと腰掛けた女性とバチリと目が合い、ソフィは慌てて視線を落とした。
(この方が、イザベル王妃殿下……)
王妃イザベルは噂に違わぬ美しい女性だった。
整った目鼻立ちに、ゆったりと波打つ金の髪。長い睫毛に縁取られたエメラルドの瞳はまるで宝石のようだ。
腰掛けていてもわかるほどに均整の取れた身体つきは、三十代半にはとうてい見えない。
目覚めて間もないイザベル王妃は、寝間着にガウンを羽織っただけの装いで、化粧も施していない。にもかかわらず、その姿からは気品と優雅さ、そして人の上に立つ威厳のようなものが感じられた。
イザベルは、瞳に浮かぶ好奇心の色を隠すことなく、ソフィを上から下までまじまじと見やる。
そうしながらひとしきりソフィの化粧水を褒めた後、ついとアルマに視線を送った。
「それにしてもアルマも人が悪いわね。こんなに綺麗な子を隠しておくだなんて。大げさに言っていたけれど、火傷痕なんてちっともないじゃないの」
王妃の言葉にはわずかな棘が含まれていたが、アルマは動じることなくひょいと肩を竦めた。
「アタシは何も大げさになんか言っておりませんよ。本当に痛々しい火傷痕があるんです。化粧で隠してるんですよ。ないように見えるのは、ひとえにソフィの鍛錬の賜です」
「化粧で、ねぇ……?」
王妃は半信半疑の様子で眉を寄せていたが、良いことを思いついたというように口元に笑みを浮かべた。
「それならばソフィ、今ここで化粧を落としてご覧なさい」
ソフィは小さく息をのむ。
「イザベル様、それは……」
渋い顔で口を挟もうとしたアルマを、イザベルは片手を上げて制した。
「何も見世物にしようというのではありませんよ。本当にそれほどの腕前ならば、ぜひとも確かめたいじゃないの。どう、ソフィ? 嫌なら断っても構わないわよ」
ソフィの心臓がドキドキと早鐘を打ち始めた。
(どうしよう……)
高貴な人の前で醜い素顔を晒すのは怖い。
けれど、王妃殿下の命令を断ることもまた怖ろしい気がした。
それに、イザベル王妃はアルマの言葉を疑っている様子だ。もし素顔を晒さなければ、アルマが何か不利益を受ける可能性があるのではないか……。
ぐるぐると考えがまとまらないまま、助けを求めるようにアルマに目をやれば、小さなうなずきが返ってきた。それでソフィは察する。
(……そうか。これはチャンスなんだ。アルマさんの弟子として、王妃様に認めてもらうための……)
きっとアルマはそのために、ソフィをここへ連れてきたに違いない。
ソフィの心は決まった。
「……やります」
イザベルが満足げにうなずく。すぐさま、壁際に控えていた侍女が道具を揃えて戻ってきた。
イザベルと侍女達の視線を浴びながら、小さく震える手で化粧を落としていく。
化粧落としのオイルを丁寧に化粧になじませ、ぬるま湯を含ませたガーゼで拭き取る。それを何度か繰り返し、最後に乾いたタオルで優しく顔を拭う。
そのタオルを取り去り顔を上げると、王妃が小さく息をのんだ気配があった。
周囲で見守っていた侍女達から小さなどよめきが起きる。彼女達の顔が驚きや不快に歪むのが、視界の端にちらりと映った。
その反応にうつむきたくなるのをこらえ、ソフィはまっすぐに顔を上げ続けた。
「……これは驚いたわね」
イザベルは目を瞠り、ほぅと吐息を漏らした。その表情に蔑みの色がないことに安堵したのも束の間、続く王妃の行動にソフィは固まった。
イザベル王妃は自らソフィに近寄ると、その顎に指を添えて上向かせたのだ。
瞬きも、呼吸すらもできないでいるソフィの顔を、イザベルがうっとりと見つめる。
「これほどの火傷痕を完璧に隠して見せるだなんて……。なんて素晴らしいのかしら」
至近距離で、イザベル王妃のエメラルドの瞳が楽しげにきらめいた。形の良い唇が弧を描く。
「決めたわ、ソフィ。あなた、今日からわたくしの侍女になりなさい」
ソフィは目を見開く。室内に静かなざわめきが広がった。




