第10話『平凡で特別な日常』
☆
七月二十九日。水曜日。突如として校舎の北にあるノーザンクロス湖から列車が飛び出してきても、その乗客に選ばれて『葬儀』なる儀式に参加することになっても、人々の暮らしが止まることはない。
今日も寮の食堂では栄養士さんが朝食を用意していて、それを食べて早朝から部活動や研究に励む生徒がいて、その光景を窓越しに眺めながら授業の準備をする教師がいる。
どのような喜劇も悲劇も等しく飲み込んでしまう平凡な日常は、恐ろしくて退屈さもあるけれど、同時に眩しくて心が落ち着く拠り所にもなる。
不意にそれまでの日常に戻れなくなる圧倒的断絶――それを経験したことのある私は、何でもない日々の大切さを教えてもらった私は、夏休みを目前にして、再び日常を形作る一片となることを選んだ。
拠り所にしたかったから。拠り所になりたかったから。
かくして学院長室を後にした私は、一度女子寮に戻りシャワーと朝食を済ませ、高等部校舎にとんぼ返りし、教室に入って席に着いた――そんな午前八時半のことである。
ほどなく始まった朝礼にて、壇上に立った担任のレイヴン先生は開口一番。
「――体験入学者のペイルだ。夏休みまでのほんの僅かな時間だが、この教室で共に学んでもらう」
先生の後ろにひょこりと着いてきていたペイルパープルの髪の少女を指して、クラスメイトたちにそう告げた。
「……ペイル・ルナール・ロッテ、です。こういうところは初めてだから、迷惑をかけちゃうかもしれないけど、よろしくね。えっと……ぴーす」
無表情でダブルピースするペイルだった。かわいい。
「あの……何がどうなってこうなったんすか、マリモさん」
隣の席のクロヴィスが、学院の制服に着替えたペイルから一切目を逸らさないまま尋ねてくる。開け放たれた窓から舞い込む風に吹かれながら、私はここ一時間の間に起きた出来事を想起した。
女子寮の庭。湿気を含んだ夏の風と眩しい陽射し。空を飛ぶ鴉。どこにも居場所がなく、ひとり寂しげにぽつんと、学生たちの登校風景を眺めていた少女。
考えるより先に迷いなく手を差し伸べたルカと、己のそれが安い同情心ではないか逡巡した後に続いた私。
「……ルカと私で彼女の監視役に立候補したの。で、それを学院長に伝えるとき、一緒に居たレイヴン先生が彼女を生徒として受け持とう、って」
「そうすれば監視もしやすいし、ペイルの人となりも分かる。……一石二鳥ってわけですか」
「大人の判断としてはね」
「席はマリモの隣だ」
レイヴン先生の言葉に頷いて、階段を上がってくるペイル。
「……ここに座ればいいの?」
「ええ。教材は用意が間に合わなかったみたいだから、今日は私の物を一緒に使いましょう」
少し席をつめて、一人分の空きスペースを作る。
この階段型教室に採用されている学校家具は、木製の長テーブルと長椅子だ。
基本はそれを二人でゆったり使う形式のため、三人掛けでも広さ自体は問題ない……というかむしろ、それで丁度いいぐらいだろう。
だからまあ、真ん中の人が若干席を立ちにくいというデメリットはあるものの、ペイルが手狭さや不便さを覚えることはないはず……と、思ったのだが。
「ペイル? どうかした?」
中々座ろうとしないペイルに、私は首を傾げる。
するとペイルは無言で席に着いて、それからじぃっと窓の外を見つめた。
陽射しを受ける彼女の紫銀色の瞳が、水晶のように輝く。
そうして何かを確かめるような束の間の後、涼風のような声が控えめに響いた。
「……ここだと少し、月が見づらいなって」
「はあ……真昼の月というやつかしら……? ええと、葬儀のルールか何かで見えていたほうがいいとか?」
「ううん。私の気持ちが落ち着かないだけだよ。だから大丈夫。我慢できるし、多分すぐに慣れる」
平淡な声で言って、再び無表情ピースをするペイルだった……が。
「んな話聞かされて、我慢しろっつーやつがいるかよ」
間髪入れずにクロヴィスが言葉を差し込んだ。
「こっち来いよペイル。せっかくの体験入学なんだし、そんぐらい許されるだろ」
「うんうん」
クロヴィスの提案に私も頷く。すると彼女は微かな笑みを浮かべて言う。
「ありがとう。クロヴィス、マリモ……でも、その前に」
「ん、なんだ?」
「そっちに行きたい理由はもう一つあるんだ。それを先に言わないとフェアじゃない。さっきみたいに、正直じゃない言い方になるのは……よくないから」
さっきというのはおそらく、学院長と話していたときのことだろう。
葬儀で私のアトロポスの輪を狙った動機について、詰問するような学院長に毅然と言い返していたペイルだけれど、意外と気にしていたのかもしれない。
「お、おう。で……なんだよ、そのもう一つの理由って」
「私はクロヴィスの隣に座りたいと思ってる。だからそっちに行ってもいい?」
「――――」
クロヴィスと二人で目を見張る。
いえ、なんで私までって感じではあるのだけど、でも今のって、結構衝撃的な発言よね……?
クロヴィスとペイル。妙に心の距離が近いとは思っていた。
ただそれは、私たちの誰よりも先に出会ったことで打ち解ける時間があったからだろうと、勝手に推察していた。だが実際は……そうではないのかもしれない。
「ペイルってもしかしてクロヴィスのこと……」
もしかしなくても、本人を前にして安易に口にすべきではないことだったが、つい口走ってしまうと。
「なんか懐かれたみたいっす」
平然と呟くクロヴィス。いやいや小動物じゃないんだから……!
自身に向けられる感情に気付いていないのか。
あるいは気付いていて照れ隠しをしているのか。
もしくはペイルの好意が純粋すぎるゆえに、受け手としても発露が自然というか、意識せず受け止められるのか。
「ほら、来いよ」
いずれにしてもクロヴィスが窓際の席に誘うと、ペイルは移動を開始した。
「うん。じゃあちょっと、通るね」
「いッ――⁉」
変な声を出したのは私だ。
というのもペイルは、私と机の間の小さな隙間を通るため、ほとんど座ったままの姿勢――つまりこちらにお尻を向けるような姿勢で移動し始めたのである。
確かに、一度席を立って後ろの通路から回り込むよりは早いだろう。
だが女子同士である私ならまだしも、隣にはクロヴィスが控えている。
さすがに男子に対しては、配慮に欠けた移動方法と言わざるを得ない。
だから、そのあまりの無警戒っぷりに私は驚きの声を上げたし。
そして当のクロヴィスも。
「――ちょ、後ろ通れっつの……ッ」
スカートを揺らしながら膝の上を通り抜けるペイルに抗議しつつ、必死に顔を反らしていた。
季節柄、上着となるローブはロッカーに預けており、シャツとスカートというわりと防御力控えめな恰好のペイルなのだ。幸いなことに下着が見えるような角度ではなかったものの……さすがにあとで注意したほうがいい、わよね……?
なんていうか、小学生のときの掃除の時間。
張り切って床の雑巾掛けをしていたところ、ふと振り返ったら後ろに男子が居た……みたいな緊張感を覚える私だった。
「……が、頑張って!」
サムズアップをして、クロヴィスを鼓舞する。
「何をですか……」
彼は今後もペイルの無邪気な行動に振り回される。そんな気がしたのだ。
「……うん。温かくて、良い席だね」
窓際に移ったペイルは、満足そうに窓外に広がる空を見上げていた。
……隙間風が舞い込むたび、クロヴィスの横顔を見つめてもいた。
――放課後を迎えてすぐ、ルカが階段を上がってきた。
教室を出ていく生徒たちの波に逆らう彼女は、すれ違いざまに多少の冷ややかな視線を浴びていたが……そこまでだ。朝からそれとなく様子を窺っていたけれど、昨日の暴露の余波は、ひとまずそこまでで抑えられている。
理由は今回の一件が『さざ波の止まり木』預かりになっているから――と言いたいところだが、やはり大きいのは彼女がこれまで積み上げてきた信頼。
それがルカに対するある程度の許容を生み出しているのだろうし、同時に恩を仇で返すような後ろめたさを覚えさせている、というのもあるはず。
そんなわけで表面上は普段通りの空気の中、私たちの席を訪れたルカは、懐からとある用紙を取り出した。
「マリモさん、これどうぞ。昼休みにちょろっと取ってきたので!」
「あ……ありがとう、ルカ」
用紙を受け取る。このあと取りに行こうと思っていたのだが、相も変わらぬこの手際の良さ……別に喧嘩をしたわけではないけれど、昨日の今日で再びこのような気遣いをしてもらうと、一歩先を行かれたというか、動けなかった自分が一方的に気にしているみたいで、ちょっと複雑だ。
いえまあ……事実そうなのだろうけども。
「外出証? これからどっか行くんですか?」
横からクロヴィス。私は気持ちを切り替えて質問に答える。
「ペイルも入れて、三人でちょっと街にね。学院に滞在するなら色々と必要だし、私たちもちょうど買いたい物があったから」
「話が聞こえてきたが……学院の外に出るのか?」
顔を上げると、ルカの後ろにハイネが来ていた。
「ええ。何か用だった?」
「実はペイルに、二、三尋ねたいことがあってな」
「なら、君も来る?」
「いいのか?」
ペイルの提案に私とルカも頷く。
「では荷物持ちということで、ご一緒させてもらおう。クロヴィスはどうする?」
「あ?」
「仲間外れは良くないかと思ってな」
「……じゃ、俺も行くよ。荷物持ちで」
というわけで、クロヴィスの外出手続きを済ませた後、五人で買い物に行くことになった。
♰
学院を出て、はや一時間。
北区の繁華街にあたるトランクストリートに入り、いくつか店を物色し、それなりに荷物が増えてきた頃。
「そういえばハイネ、私に尋ねたいことってなに?」
クロヴィスと並んで先頭を歩いていたペイルがおもむろに歩幅を落とし、最後尾を担っていたオレの隣に並んで訊いてきた。
なぜこのタイミングで――と一瞬考えたが、この雑踏の中であれば逆に紛れるし、同時に探りにも牽制にもなる。
周囲からはノイズとして流される状況。
だが、前を歩くマリモたちにまったく声が届かないわけでもない状況。
そんな状況下で何をどこまで話すつもりなのか、見定められている、気がする。
平淡でゆったりとした話し方とぼうっとした世間離れした雰囲気から、良くも悪くも無邪気さが前面に出ているように感じるが、その実かなりの洞察力と思索を潜ませているこの掴めなさ。
……正直、今はあまり関わりたくないタイプかもしれない。
「今夜も葬儀を行うのか?」
こちらも探りを入れるように、葬儀という単語を出して直球に尋ねる。
するとペイルは素直に頷いた。
「うん。そのつもりだよ。それとも今すぐがいい?」
「……できるのか?」
「目には視えなくても、月はいつでもそこにあるから」
「そうか……いや今はいいんだが、対戦者はペイルが決めるのか?」
思わぬ発言に若干リズムを崩されながらも、続けて尋ねる。
「違うよ。みんなが選ぶの。あ、でも……マリモは休ませてあげたいな。彼女、次はきっと、自分で自分の輪を切ると思うから。二度目の歳月の幻灯が何を映し出すかは、私にも分からない」
「だが、同じ人物が連続で参加すること自体は不可能ではない。……逆に参加権を持ちながら一度も戦わないことも可能なのか?」
「多分できるよ。ただそれだと、燃料が溜まらないから葬儀が長引くと思う」
「燃料?」
「生きようとする意思と死を求める意志。あの儀式を通じて列車に蓄積されるもの。それが貯まったとき、葬儀は次の段階に進む」
「月の海での対決を経て、燃料を貯める……それが目的か」
「正確には通過点だけどね。ねえ、君は本心を隠して訊いてくるけれど、つまりあの場所に立ちたくないの?」
「……ああ、お前と同じだ」
「そうだね。君は戦いそのものに忌避的になっている。勝てばいいとか、相手を説得できればとか、そういったリスクを抱えてでも臨む覚悟を一切感じない」
「…………は」
的確な指摘に、苦笑が漏れた。それは悔恨であり自嘲でもあった。
「否定はしない。何もしたくないし、できなかったんだ。オレは……」
誰に言うでもなく、しかし何かに縋るように、甘えるように、小さく呟く。
そこで会話は途切れた。オレもペイルも、それ以上何も言わなかった。
☆
――買い物が一通り済んだところで、人気のファストフード店に行こうという話になった。
というのもそのお店、ルカが副院長を務める青春履行委員会と提携関係にあるらしく、限定の割引券が発行されているらしい。
以前、喫茶店のコーヒー無料券を貰ったことがあるけれど、そういうところは委員会の強みよね。
青春を履行する。友人と輝かしい思い出を作る。
そのための場を提供するべく、委員会は飲食店から美術館まであらゆる場所と交渉し、無料券や割引券などを発行してもらい、それを会員に配布しているのだ。
そして今回はルカの計らいのもと、『学校帰りに友人と買い食いをするシチュエーションの履行』という建前で、委員会所属でない私たちもその恩恵にあずかることとなった。
五人でお店に入る。時間帯のせいもあるのだろう、店内はかなり混んでいて、注文口にはそれなりの列ができている。
それを見て、ルカが近くに平積みされていたメニューを持って広げた。
「注文、決めておきましょうか。マリモさん、どれにします?」
「私はじゃあ、せっかくだから看板メニューにしようかしら」
「間違いないチョイスですね。わたしも同じのにします」
「ハイネはどうする?」
「オレはこれにしよう」
ハイネが指差したのはメニューの隅のほう。一番金額が安く、そしてボリュームの少ないハンバーガーだった。
「なんだよ景気悪いな坊ちゃん、金ねえのか? なんだったら立て替えてやってもいいぜ?」
「必要ない。これがいいんだ」
からかうような口調で、しかし頼まれたら本当に立て替えてくれそうな感じで提案するクロヴィスに、しかしハイネは首を振った。
お金がないから選んだわけでも、反発心があるから断ったわけでもない。
それを察したクロヴィスは、
「あっそ。じゃ、俺は激辛のヤツで」
あっさり引き下がって、自分の注文を決めた。
「ペイルはどれがいいとかあるか?」
「一番、安全なものがいいな」
「安全ってなんだよ……。ならこの野菜バーガーにしとくか? 健康そうだし」
「うん」
そうして各々注文を決めた後、注文組と席取り組の二手に分かれる。
注文組は、受け取る品物の量が多いことを見越して私とハイネで残った。
いやなに、これでも給仕のプロから指導を受けた身だ。私ひとりでも充分だと思ったのだけれど、ハイネはハイネで残りたい理由があったらしい。
少し人混みに疲れた様子のペイルを先導するクロヴィスとルカを見送って、注文を済ませ、それから受け取り用の列で待機する。
「……そういえば前に言ってたわよね。本当は一番安いハンバーガーにかぶりつくようなのが性に合ってるって」
なんとなく、ハイネに話を振る。
『プティ・シムティエール』で晩餐会が開かれたあの夜。一人で大広間に居た彼が、タイを緩めながらぽつりと私にこぼした言葉を、ふと思い出したのだ。
「ああ。今日は一緒に来れて良かった。おかげで夢が叶ったよ」
笑みを浮かべて言うハイネ。それは断じて軽口でも冗談でもなかった。
大げさかもしれないけれど、彼なりの切実さが籠められた言葉だった。
だから。
「来ようと思えば、また明日も来れるわよ。きっと」
当たり前のことのように、当たり前であってほしいと思いながら言う。
「……だといいな」
ハイネの声は、まるでそうならないことを悟っているかのようなモノだった。
目を伏せるハイネに、私は何を言うべきか迷う。
『私は現状――ハイネ・ヨハネス・ヒルデブラントを疑っている』
脳の奥でリフレインする、あの男の声。
確かな根拠はないと言われたし、到底あり得ない疑いだと思った。
けれど今の彼は……明らかにいつもと、何かが違う。
声色や仕草に悲観や諦念が滲んでいる、とでも言うべきか。
いえ……不意に感傷のスイッチが入ることは、転生者にとってそう珍しいことではない。私がそうであるように、彼にも己と向き合う機会が訪れた可能性は充分にあるだろう。
だから。
「……ねえ、気のせいだったらそれでいいのだけれど、何かあった?」
それが内的なモノであれ、外的なモノであれ、最後の一歩を踏み出すのは自分自身だとしても、だからといって他者の存在が不要なわけではない。
その祈りを――傲慢を携えて私はハイネに訊いた。
「どうしてだ」
「今朝からちょっと元気がない感じだから。……葬儀のこと?」
「……そういうマリモのほうこそ、平気か?」
「私? 私はいつも通りのつもりだけど……そう見えない?」
思わぬ切り返しだったが、率直に答える。
踏み込まれたくないというのなら、まずは私が踏み込ませなければ。
「どうだろうな。マリモは自らを死に追いやろうとした相手と共に居ることを選んだ。ルカと一緒にではあるが。心的負担はむしろあって当然だと思うが」
「それは……そうね。ペイルは不思議な子だけどブレない何かを見ていて、あんなことをしたのにも相応の理由があるはずだって、割り切ってる。でも、もう少し気にしたほうがいいわよね。……心配してくれてありがとう。ハイネ」
「いや……」
「それとルカのこと、ごめんなさい。頼まれていたのに昨日は防げなかったから」
「まだ全部が終わったわけではないんだろう? それにルカにまつわる噂を耳にして、恋愛沙汰なら同性のほうがと考えたのは、我ながら短絡的だった」
「……まあ、私の恋愛アンテナが低いことは認めるけれども」
冗談めかして言うと、ハイネはようやく、少しだけ口角を上げてくれた。
「あの男、ゴドーのことはどうだ。歳月の幻灯……再生された過去の記憶から、忘れていたかったことを思い出したりしてないか?」
「……そうね。確かに思い出したわ。決して――忘れちゃいけなかったことを」
消えない傷。消してはいけない傷。
彼が私に与えた、私が彼に与えた、あの行いを。
「ハイネはあるの? 思い出したくない記憶」
「……ないな。忘れたいことほど忘れられない頭なんだ」
一歩だけ踏み込んだ私の問いに、彼は目を逸らして、そうこぼした。
受け渡しの順番が来た。注文した商品は、きちんと全部揃っていた。




