第1話『崩れ去る日常』
☆
――間違いだとしても、いつか死に別れる結末だとしても。
それでも、無かったことにはできない、恋をしよう。
七月二十八日。火曜日。先日めでたく創立百年目に突入したアプステラ魔術学院の、百回目の夏休みを目前に控えた昼下がりである。
担任のレイヴン先生の授業から始まった午後。
教室内に響くのは相変わらずダンディな先生の声と、小気味よく打ち付けられるようなチョークの音だけ。
「…………」
まるで嵐の前の静けさというべきか。
もうあと何日かで訪れる夏休み。今か今かと逸る心。浮つく気持ちに引っ張られる身体。それらを授業に集中することで何とか抑えつける……そんな努力のもと成り立っている静寂が、ここにある。
私もその静寂を構成する歯車のひとつだ。
なにせアプステラに編入して初めて迎える夏休みだし、加えて現在学院は『百年祭』の真っ只中である。
この一年――生徒側も学院側も問わず、様々な催しが仕掛けられているとか。
ならばきっと毎日が退屈しない、イベントづくしの夏休みになるだろうと、普段は後ろ向き気質な私でさえワクワクせざるを得ない。
夏休み開始は八月一日から。
前日である七月三十一日は終業式だけで終わり――と思いきや、普通に午後まで授業があるそうで、特に早く終わることはないらしい。
昼休みに耳にした、生徒以外にとっては些細で他愛ない事実。
しかし生徒からすれば驚天動地の衝撃的事実を、ふと思い出した私は。
そうなると残りの授業数は……なんて頭の片隅に置いていた思考に、抑えつけていたざわめきに、つい意識が向いてしまったりして。
そんなときだった。
「――――――」
私の、冴え渡ったりそうでなかったりする第六感が、何かを告げた。
それが何かは分からない。ただ言えるのは、それはいわゆる虫の知らせのような、決まって良くないことが起こる予感であり直感だということ。
かちゃり、と隣の席で物音が鳴る。
私は横目で隣人を――クロヴィス・ヴェルタ―の様子を窺った。
彼はペンを置き、普段はロッカーに預けているはずの魔導具……機械仕掛けの施された刀に、手を伸ばしていた。
どうやらクロヴィスも何かを感じ取ったらしい。
彼のその、火花が焼き付いたようなバーミリオンの瞳が、教室の出入り口である前方の扉を睨みつけている。
ちなみに学院の教室は、一般的に階段教室になっている。
以前通っていた学校の視聴覚室や、大学の講義室を思い出す構造だ。
ゆえにだろう。私とクロヴィスという最後列二人の意識が黒板、ひいては授業とはまったく別の部分に注がれていることを、壇上のレイヴン先生は即座に察した。
かっかっかっ、と連続していたチョークの音が途切れる。
そんな担任教師の行動に違和感を覚えた者がひとり。
私たちの三列前に座るハイネ・ヨハネス・ヒルデブラントも、その手を止めた。
先ほどとは別種の静寂が、室内に満ちていく。
目前に迫った非日常を前に、本当の青春とは、何の前触れもなく問答無用にやってくるモノなのではないかと、胸がざわめいてみせる。
妙な緊張感が高まっていく最中、ふと私はあることを思い出した。
――青春履行委員会。
この学院に在籍する、かつて果たせなかった想いを持つ者、つまりは転生者を主として組織されたその委員会には、なんていうか、集団としての信念を示す社訓みたいなモノが存在する。
その名も――『青春三か条』。
私は委員会所属でないので結構おぼろげなのだけれど、確か……。
ひとつ――『青春は甘く苦いものである』。それを享受する者みな等しく。
ひとつ――『青春は世界を振り回すモノである』。大人、常識、世界、そのすべてを振り回し、乗り越えていく力が青春にはある。
ひとつ――『青春はいつか必ず終わるものである』。終わりがあるからこそ価値が生まれ、そして新たな始まりを迎えられるのである。
だったか。
なにゆえ今それを……具体的にはその二番目を……想起したのかというと、だ。
私の友人にしてクラスメイトに、ルカという女の子がいる。
誰とでも仲良くなれる温厚な人柄と、その巧みなコミュニケーション能力を高く評価され、高等部の一年生にして、青春履行委員会の副委員長に任命された子だ。
「……なんか来ますぜ、マリモさん」
私が入学したのは六月の終わり頃。そして彼女の副委員長就任が四月のことだから、詳しいことは知らないのだが、かなりの大抜擢であることに間違いない。
自称――『みんな』の愛らしき副委員長。他称――『青春』の体現者。
だから、根拠もなく直感したのだ。
この青春を呼び込んだのは彼女なのではないか、と。
「――ルカ・フローレンスッ‼」
教室の扉が蹴破られた。
日常の崩れ去る、音がした。
鈍い足音を響かせながら乗り込んできたのは、ひとりの女生徒だった。
彼女は教室の中心に居たターゲットを見据えて、鬼の形相で口を開く。
「よくも私の彼氏を取りやがったな⁉ しかもほかに何人も男いるって⁉ ざけんな! 淫乱ピンク髪ビッチが‼」
青春が舞い込んだ――音がした。
……いや、青春というには、だいぶ不純不穏当な色恋沙汰を示唆する叫びだったけれども。
「…………」
教室内の誰も彼もが、名指しされたルカ本人すらも状況を飲み込めず固まる中。
乗り込んできた女生徒は躊躇いなく、右手に持った魔導具の宝石を構える。
励起し注がれる魔力。彼女の足元に展開される円形の魔術式。
――それを見て、即座に二つの影が動いた。
隣の席のクロヴィスと、三列前のハイネだ。
二人はこういった荒事に慣れていて、そしてライバル関係でもある。
正確にはクロヴィスが割と一方的にハイネを意識している感じなのだけれど、ハイネ側も特にそれを拒絶することはなく。
ゆえに、というべきか。皮肉にも、というべきか。
日頃は対立関係にある二人は、しかしこういった場面では自然と息が合うのだ。
片や階段飛ばしの跳躍、片や机を蹴っての連続ジャンプで肉薄する男子二名。
それを察知してなお、しかし女生徒は回避行動には移らなかった。
肝が据わっているのか。それともただ反応できていないだけなのか。
いずれにしてもこのままでは、被害は避けられない。
いえ、あの二人は相手を無力化する戦い方を心得ている。
相手が少しでも怯んでくれたなら、術式の発動が一瞬でも中断されたのならば、安全に取り押さえることができたはずだ。
けれど女生徒は捨て身の姿勢で術式に魔力を注ぎ終えてしまった。
嫉妬の炎なんて言葉があるけれど、実際彼女の手元に収束している魔力を見たところ、今にも火の玉か何か出そうな勢いで。
そこまでいってしまった場合、もうどこにも影響を及ぼさないまま魔力を霧散させることは難しいだろう。
手元で暴発させるか、あるいは窓ガラスが割れることを承知で外に撃たせるか。
狙われているルカ。それを防ごうとしているクロヴィスとハイネ。巻き添えを食いそうな他のクラスメイトや教室。徹底して傍観の構えを取るレイヴン先生。そしてあの女生徒自身。
すべてが被害を受けずに済む手段はもう――ひとつしかない。
際の際まで待ち、それを見極めたところで私は動いた。
――起源抜刀。
「『絶対無血領域』――――」
手元に顕現させた、私の髪と同じ色の純白の剣を振るい、結界を展開する。
瞬時に教室内に発生する白い羽根。それはまるでスノードームのように、軽々と舞っては落ちて、そしてまた浮かび上がる。
ひとまずは、これでいいだろう。
女生徒の魔術は既に無効化されており、クロヴィスが構えた魔導具も、ハイネの手刀も、それぞれ寸止めしたように動きを止めている。
階段を下りる。すると女生徒がやっとルカから視線を外して、私を見つめた。
「……『親愛なる光輝』……これが、例の結界……」
初めて聞いた彼女の張り上げていない声に頷く。
――『絶対無血領域』。我ながら安直すぎる命名だと常日頃思っているのだが、しかしその効果は折り紙付きだ。
なにせ私はこの、『人を傷つける魔的法則のみを無効化し、怪我や病の進行を一時的に止める結界』によって、アプステラ魔術学院の特別生――『親愛なる光輝』の称号を、『さざ波の止まり木』という二つ名を、授かったのだから。
クロヴィスとハイネに目線を送る。あとのことは私が引き受ける、と。
それからレイヴン先生にも。
『親愛なる光輝』には通常授業免除の特権がある。
まだ入学したばかりの身としては進んで使いたい特権ではないし、良い顔もされないだろうが……まあ授業中に誰かが乗り込んでくるなんて滅多にないことなので、ご容赦願いたい。
「初めまして。私の名前はマリモジュナ。ひとまずあなたのお話は、ケイジ課で聞かせてもらえる?」
そう自己紹介して、私は彼女を『形而上調和課』に案内することにした。




