深海のスナイパー(三十八)
駆逐艦の磯風にて、軽い混乱が起きていた。旗艦である大和から、カチカチと発光信号が送られてきたのだ。
急いでいたのか、暗号化されていない平文である。
艦長と副長は、その指令を見て首を傾げていた。
『2ー7ー0ヘ ギヨライウテ ハルウララ』
現在の戦況を鑑みて、その指令はおかしい。散々待たせた挙句、魚雷を味方に向けて発射しろと、言っているのだ。
頭、噴いちゃっているとしか思えない。
「先頭の駆逐艦Aなら、方位は0ー7ー0だよな」
艦長に聞かれた副長も、首を傾げるばかりだ。
「そうですねぇ」
そう答えて、状況が判っていない係員に、再度問う。
「本当に『フタ』ーナナーマル、だったのか?」
「はい。間違いありません」
直ぐに返事があった。副長は頷く。
「判った。ご苦労」
係員は敬礼して立ち去って行く。本当に間違いではないようだ。
「指令の通りであります」
「そうらしいな」
副長が確認するのを、艦長も聞いていた。間違いない。
しかし艦長は、指令の最後を指さす。
「この、『ハルウララ』って、何だ?」
「『隣は何をする人ぞ』でしょうか?」
艦長の問いに、副長がノータイムで答えた。艦長は苦笑いだ。
「君ぃ、それは『秋深し』じゃないのかね?」
どうやら、松尾芭蕉の句だったようだ。
「あっ、そうでありましたなぁ」
副長は指摘されて、頭を掻く。艦長と副長は、いつもこんな感じだ。『クスクス』笑う声も、聞こえて来る。
そんな磯風の艦橋に、今日も穏やかな空気が流れていた。
「砲雷長なら、知っているかもしれません」
思い出した様に副長が言う。
すると艦長は、席横の黒電話で、砲雷長を呼び出す。
『出番ですか!』
今まで、水上発射管の上で踊っていたのだろうか。少し息を切らしている。
「あぁ、やっとだ」
『判りました!』
何だか、直ぐにでも魚雷を撃つ雰囲気が感じられる。
「ちょっと待ってくれ!」
慌てた艦長がそれを止める。やはり、もう行ってしまったのだろうか。反応があるまでに、暫時待つ。
『何でしょうか?』
そう言いながら、きっと電話の向こうでは、魚雷調整用の工具でもクルクル回しているに違いない。
「大和からの指令に『ハルウララ』ってあったのだが、そんな暗号はなくてね。砲雷長は判るかね?」
『えっと『春うらら』で、ありますか?』
「そうだ『ハルウララ』だ」
そこでしばしの沈黙。きっと電話の向こうでは、砲雷長が暗号について調べているのだろう。
「判りました!」
どうやら暗号表に載っていたらしい。艦長は頭を掻く。
こんな失態を、大和の艦長・片桐大佐や、名前なんて覚えちゃいないが『作戦参謀』殿に、バレたら大変だ。
『艦長、それは『隣は何をする人ぞ』です!』
艦長はガックリとうな垂れた。
この艦に乗っている奴らは、みんな松尾芭蕉が好きなのか?
確かに芭蕉の句は良い。
それに内緒だが、自分だって最初はそう思った。
こうなったら艦内放送で、全員に聞いても良い。いや、そんな暇はない。もう、疑問を挟む余地はない。
撃つのだ。魚雷を! 方位2ー7ー0、距離三千。
僚艦の、イー407に向けて、命令通りに!
「砲雷長、方位2ー7ー0、距離三千。一発頼む」
『艦長、方位『フタ』ーナナーマルで、ありますか?』
砲雷長は、受話器を持っていない方の手で、その方向を指しながら聞き直す。
その方向は、駆逐艦A、B、Cの、いずれでもない。
「そうだ。方位2ー7ー0、距離三千。きっかり三千だ」
『方位2ー7ー0、距離三千きっかり。了解しました!」
電話の向こうから、砲雷長の気合の入った返事が聞こえてきた。
そんな砲雷長には悪いと思いつつ、艦長が、一つ命令を追加する。
「いいか? 絶対に当てるなよ! いいな? 絶対だぞ!」
『はっ?』
砲雷長は何も見えない方位2ー7ー0を見て、首を傾げた。




