深海のスナイパー(二十六)
イー407のカタパルトに、クレーンで吊り下げられた『晴嵐』を、降ろそうとしているときだった。
辺り一面が明るくなる。夜明けか? いや違う。
それにだからと言って、時計を見る者もいない。
「照明弾! 敵ですか?」
「違うな」
副長の宮部少佐は、冷静だった。
ここは尻屋埼灯台よりも南。敵船が来るはずがない。
仮に、潜水艦がいたとしてだ。そこで『洋上作業をしている潜水艦』を発見したら? 撃つべきものは何か。
考えるまでもない。それは、照明弾ではなく。魚雷だろう。
それに、隠密行動をしている秘密の座標に向け、正確に照明弾を撃てるはずもない。
一応『無害通航権』を宣言した『敵』軍艦がいたとして、そんな間抜けな宣言を信じ、領海を航行させ、照明弾まで使わせて?
どこが『無害』だ。
砲塔回したり、レーダー照射したり、魚雷撃ったりした時点で『無害』なんて言わせない。
そもそも、潜水艦の天敵『駆逐艦』の艦橋・洋上十五メートルから拝める距離は、十五キロ弱。
見えない彼方から照明弾を、撃つはずもない。
笑っちゃうくらい、アウトレンジである。
もし、空からなら? いや、それもない。
飛行機が日本の領海に入ったら、それこそ三沢基地からスクランブル発進した戦闘機に、遠慮なく撃ち落されてしまう。
ここは、れっきとした日本の領海なのだ。
そう考えている間に、照明弾の明かりは徐々に暗くなり、やがて闇に戻った。
「またです! どこからなんだ?」
「落ち着け。少尉」
イー401の艦橋から、宮部少佐は再び少尉を諫める。
再び明るくなった一帯を眺めた。しかし、何も見えない。
そもそも『明るくなった』と言っても、暗闇に目が慣れたところに、波間まで見えるようになっただけだ。
サングラスが必要なほど、明るくなった訳ではない。
「周りに敵はいない。大丈夫だ」
「本当でしょうか?」
少尉は怯えている。それも仕方ないだろう。何しろ少尉は、この作戦のために、先日『死んだ』ばかりだ。
いや、それは縁起が悪い。『死んだことになった』ばかりだ。
少尉を安心させようと思い、宮部少佐は『ポンポン』と肩を叩こうとしたのだが、それは止めた。
もし叩いたら、その衝撃で本当に死んでしまいそうだ。
「敵は、どこでしょうか?」
その問いにも、宮部少佐からの答えはない。
少尉が双眼鏡から目を離して振り返ると、宮部少佐は双眼鏡から目を離さずに、別の方を見ていた。
照明弾にも色々な種類がある。
基本は『攻撃対象となる敵軍だけが明るくなり、敵軍から発見されないように、自軍は暗いまま』である。
だから、攻撃方法と攻撃対象との距離によって、使用するものを変える。無意味にパンパカ撃つものではない。
駆逐艦よりも『大きな船』が『無害通航権』を宣言している?
艦橋の高さ二十メートルから、拝める距離は十七キロ弱。
そんな距離に向けて『攻撃』するなら、今の時代、ミサイルでも発射すればよい。
その場合照明弾は、全く意味が無いのだが。
やはり、照明弾を使う意味から考えなければならない。
襟裳岬沖を西進してきた駆逐艦が、『無害通航権』を宣言しつつ、レーダーに引っかからない夜間観測機を飛ばし、遂に本艦を発見。
照明弾を発射して、攻撃態勢に入る。
違う。全然違う。
衛星で西進する駆逐艦を発見。現場に急行する。
両艦の距離は、十七キロ、プラス、十五キロ。合わせて三十二キロ。今頃、艦橋の頂上がお互いに見えているか、照明弾が届く距離ならもっと近い。
そして、まだ何もしていないまま、両艦が睨み合う。
いや、その表現は違うな。『睨み合う』ではない。
これは『睨み付ける』だ。
そう。この照明弾は、自軍を照らすもの。
駆逐艦では、絶対に沈められないことを判らせ、『やるなら来い』と警告しているのだ。
ミサイルでも魚雷でも、まして駆逐艦の砲撃でも、沈めることができない船が、そこにいる。
何をしても許される側。
つまりこれは、『無敵通航権』を行使しているのだ。
もう、初弾は充填済だろうか。当然照準も合わせているだろう。
「あれが『敵』でありますか?」
「そうかもしれん」
イー407艦橋で双眼鏡を覗く二人の顔が、再び拝めるように明るくなった。
しかしその顔は、とても対照的だ。
再び照明弾を撃つ戦艦大和。
新人少尉は驚いて双眼鏡を覗くのを止め、恐る恐る、隣の宮部少佐を覗き込む。
その横顔は、薄笑いを浮かべていた。