深海のスナイパー(二十)
「少佐殿、鈴木少佐殿ではないですかっ」
そう呼ばれて振り返るのは、当然、鈴木少佐である。
「おう! 井学大尉、元気そうだなぁ」
二人は売店で歩み寄り、敬礼もせず握手を交わした。
「少佐殿、昇進おめでとうございます」
井学大尉は、遠慮なく鈴木少佐の肩に手を回し、ポンポンと叩く。
「お前だって、昇進試験、受ければ良いだろっ」
少佐は大尉の腹を小突く。
江田島で同期の二人は、青森での再会を喜んだ。
「降りる基地、間違えたんですか?」
大尉は笑いながら、三沢基地の方を指さした。
「馬鹿、そんな訳ないだろうがっ」
しかしそれを、笑顔で否定する。
「あれ? それじゃぁ、ヘリになったんですか?」
「そう言う訳じゃないよ」
少佐の返事を聞いて、大尉は益々不思議そうな顔になる。
どうやら人違いなのだろうか? それとも少佐に昇進したら、人が変わってしまったのだろうか。
「どういう訳ですか?」
空の鬼神と言われたその人が、空母艦載機でもなければ、ヘリでもない。とは?
「ここだけの話しな」
少佐はヒソヒソ声で大尉に言う。大尉も頷いた。
「俺、潜水艦乗りに、なったんだよ」「えぇぇっ?」
大尉はつい、大きな声を出した。少佐は笑って腹に一発。
「声がでかいよっ」「す、すいません」
腹に一発位では何ともなかったらしい。大尉は苦笑いで頭を掻いている。余裕だ。
「ほ、本当にでありますか? 少佐殿が?」
疑り深い目で大尉は少佐を睨み付けた。
冗談を言っている場合とそうでない場合位、見分けが付くぞ? と、言いたげだ。
「本当だよ。列記とした、潜水艦乗りだ」
両手を腰にあて、偉そうに振り返る。どうやら本当らしい。
「宙返りとか、するでありますかぁ?」
笑顔で大尉が聞く。すると少佐は笑顔で答える。
「あー、どうなんだろうなぁ」
まるで他人事だ。しかし大尉は、鈴木の操縦する機で、グルングルンやられた『楽しい思い出』がある。
顔をしかめ、もう一つ聞く。
「木の葉落としとか、するでありますかぁ?」
今度は右手を飛行機の形に広げ、ヒラヒラと舞ってみせた。
「おー、まだやってないけど、出来ると思うぞぉ?」
「まじでありますかぁ?」
少佐の答えに大尉は、再び『楽しい思い出パート弐』を思い出す。
「今の機体、レシプロなんだよ」「まぁじぃでありますかぁ?」
大尉は訳が判らない。
やはり少佐に昇進すると、色々違う世界が待っているのだろう。
「お前も少佐になったら、潜水艦に呼んでやろうか?」
「いやいや、遠慮します」
肩を叩かれた大尉は、慌てて否定する。
もう海なんて、こりごりだ。
「私、今、大和の乗員なんで!」
「え? お前がかぁ?」
少佐が驚くのも無理はない。
改修が終わったばかりの加賀に、火傷を負わせたヘタッピが、何で大和に乗っているの? 大丈夫?
「大和はいいっすよぉ。アレスティング・ワイヤーないですからっ」
大尉は笑った。少佐は苦笑いで怒り出す。
「お前、ワイヤーも何も、その手前で失速して、ワイヤーまで辿り着いてないだろ!」
飛行機から『ビョーン』と逃げる様を表現する。
「あ、ご存じでした?」
大尉は、片目を瞑って頭を掻く。きっと頭の中では『楽しい思い出パート参』が廻っていることだろう。
「ご存じも何も、お前、今でも有名だからなぁ?」
「そうなんですか? 俺がですか?」
嬉しそうに大尉は自分を指さした。
「あぁ。『加賀のケツに突っ込んだ男』としてな!」
有名人に会った嬉しさだろうか。少佐は大尉を指さした。
「あちゃー。暫く海軍には、戻れそうにないですわぁ」
大和乗組員の井学大尉は、照れ臭そうに頭を掻いた。