深海のスナイパー(十七)
「あら、切っちゃったの?」
バスローブ姿で髪をタオルで挟み、乾かしながら現れたのは、コードネーム『教授』で暗躍中の女、山崎朱実だ。
NJSに派遣され『只の庶務』として地味な生活を送っている。
ちょっと変わった『経歴』の持ち主だ。
それでも一部の仲間達からは『朱美』なんて、古風な名前を付けられて、すっかり馴染んでいる。
「そうよ。義姉様」
そう言って、パソコンを閉じた女。こちらは、弓原楓。
潜水艦生活の延長が決まった、弓原徹の妹だ。長い依頼を受け、大学を休学した。
その上で、三歳年を誤魔化して再び十代に戻り、新入生として別の大学に通っている。
ちょっと変わった『経歴』の持ち主だ。
二人は、お互い『どこから何を依頼されているか』は、明かさない。れっきとしたスパイである。
「ふふっ。『義姉様』は、まだでしょ?」
朱美は笑った。しかし悪い気はしない。こんな妹なら大歓迎だ。
「何? 予定変更、しちゃうの?」
そう言って楓も笑う。予定は未定。どちらでも良い。
兄も朱美も、きっと世間では引く手あまただろう。
「しないけど。徹さん、元気にしてた?」
朱美は楓に聞く。連絡が取れなくなるのは、いつものことだ。
「うん。元気そうだったよ」
何を根拠にそんなことを言うのか。朱美は楓を指さして笑う。
「そんな恰好、魅せたから?」
そう言うと楓は両手を頭に乗せ、腰をクネクネと曲げながら片目を瞑り、唇だけでキスを飛ばす。
「いや、カメラ『オフ』ですからっ」
そう言って笑った。そして、弾みでバスタオルが落ちた。
朱美もそうだろうと思って笑う。
妹の裸を見たがる兄など、そう滅多にはいない。
「徹さん、何か言ってた?」
「何にも―」
楓から無情な返し。朱美はちょっと拗ねる。しかし、作戦について漏らした内容が、どこでどうなるかは判らない。
例え家族であっても、何も語らないのが良い。
「冷たいわねぇ。楓ちゃんには?」
笑顔で楓に聞く。一体、何を話したのだろう。
「『元気か?』って、聞かれたから、元気って答えたー」
床に落ちたバスタオルも拾わずに、そのまま右手を挙げ、元気良く答えている。朱美はそんな楓を見て、苦笑いに変わった。
楓も、年齢とIDを詐称するのに『朱美の協力』を得たのは知っている。
しかしその結果、『何をしているのか』を、話す義務はない。
もちろん、兄から漏れてしまったら、それはどうなるか。
いや、それを心配する必要はない。そんなことが起きたらどうなるか、兄が一番知っているだろう。
「いつも元気だもんねぇ」
そう言って朱美は、髪を拭いたタオルを、椅子の背もたれに掛けた。すると楓が、笑顔のまま朱美に走り寄る。
「ねえ、寒いから、今日は泊って行って、良いでしょ?」
朱美は笑う。寒いのはね、貴方が全裸だからですよ?
「もう。徹さん、知ってるの?」
朱美が呆れて言うと、楓の笑顔がいつもとは違う『大人の笑顔』に変わる。そう。時々魅せる『スパイの笑顔』だ。
楓から、返事はない。朱美も、それ以上聞くのを止めた。
二人はスパイ。秘密何ていくらでもある。これも、その『秘密』の内の一つだ。
腕をまわして抱き合うと、二人は見つめ合い、そしてもつれ合いながらベッドに倒れ込む。
どうやら朱美も、寒かったに違いない。