深海のスナイパー(十六)
研究室のパソコンが静かになった。参河は弓原に、潜水艦生活を押し付けて、業務に戻ってしまったようだ。
弓原は苦虫を潰したような、渋い顔になる。
最初は弓原も、潜水艦生活がどんなものか興味があった。東京の暮らしに、飽きたという訳ではない。
そもそも『東京の暮らし』というものに、実感がない。
自宅から行先を指定して『ハーフボックス』に乗ると、次にドアが開くのは職場だ。とても便利ではある。
『車窓』はない。いや、そもそも『窓』がない。
暫く前に『働き方改革』とやらで、通勤時間も仕事時間としてカウントされるようになった。
その後は、ハーフボックスに備え付けられた『窓代わりの全面スクリーン』で、仕事をするようになっただけだ。
だから、自動制御のハーフボックスが『どのルート』を走行しているのか、気にしたことがない。
そもそも方向が同じハーフボックスは、大型運搬器に『重ねて置かれている』こともある。
故に窓があっても、景色が見えるとは限らないのだ。
だから、窓のある乗り物、例えば『戦闘機』とか、『軍用ジープ』とか、そういうものに憧れがあった。
青森までの寝台列車もちょっとワクワクして、楽しかったなぁ。よく眠れなかったけど。
弓原はそんなことを、ぼんやりと考えていたのだが、再びパソコンが電話のマークを表示させて、通話を要求してきた。
「教授からだ。何だろう?」
そう思いながら、弓原は通話開始を選択する。
「もしもしぃ。元気にしてたぁ?」
聞き馴染みのある声だ。弓原は思わず笑顔になった。
「教授はどうしたんだ?」
「今、シャワー浴びてるぅ」
相変わらず、のんびりとした声。
「何だ、勝手に使ってるのか?」
「違うよ。ちゃんとログインして貰ったよー」
そうだろうけど。今、仕事中なんですよ?
「そうか。それで、何の用だ?」
「別にぃ。何か『久々にログインしてるじゃーん』って、言ってたから画面を覗いてみたら、居たから。繋いでもらっただけぇ」
大した用事はないらしい。
「あんまり、迷惑かけるなよ?」
弓原はそう言って切ろうとしたのだが、ちょっと聞いてみることにする。この回線なら、盗聴されることもないだろう。
「別に迷惑かけてなんて、ないよぉ」
そうかもしれないが、お前、人のこと、考えたことある?
「判った。判った。所でお前さぁ」
「ん? なーにぃ?」
「そっちの『任務』は、上手く行ってるのか?」
ちょっと聞いてみる。年単位で課せられた『任務』なのだ。
「順調。順調。超順調!」
「なら良いけど。良く年齢誤魔化して、潜り込めたなぁ」
年齢もIDも詐称するのは、結構大変だった。
「私『童顔』だからさぁ。まだ『十八』でも、通じるってぇ」
画面に何も映っていないが、きっと『したり顔』に違いない。
「そうなのか。でも、だからと言って、留年はするなよ?」
留年するのは、流石に『任務』として、どうなのか。
そう思ったのだが、急に笑い声がして、声が聞こえて来る。
「しないってぇ。もう、低いレベルに合わせるのが、大変なんだからぁ。ホント、さじ加減、たいへーん」
弓原は苦笑いだ。確かにお前も『頭は良い』しかしなぁ。
「『お友達』は、まだ『研究』してるのか?」
「うん。してるぅ。なんか拘りがあるみたいで、色々調べてるぅ」
そう。その『研究』が問題なのだ。
「そうか。レポートとか、どうしてるんだ?」
「共著にしてるから、そこは調整してるよん」
成程。さすが『お友達』。任務は順調なようだ。
「判った。もし『やばい』結果出たら、査読はこっちに回せ。
握り潰すから」
さらりと弓原は言ってのける。
「はいはーい」
しかし、それも当然のように受け流す。
「気を付けるんだぞ?」
「判ってる。わーかってるって! あ、教授出てきた」
「そうか。じゃぁ、教授に代わってくれ」
弓原は懇願する。
「ダメー。残念でしたぁ」
手を合わせなかったのが、バレたのだろうか。
「え? ちょっと?」
弓原は驚く。声ぐらい、聞かせろよ!
「じゃぁねぇ。お仕事、頑張ってくださーい!」
あいつ、切りやがった。
弓原は、再びパソコンを見たまま、固まった。