深海のスナイパー(十五)
「そちらに送った通り、ちょと想定とは違いました」
パソコンで東京の参河と、打ち合わせをしている。
弓原が話しかける参河は、気象省の緊急警報課長だ。
「そうなんだ。不思議だねぇ」
画面に表示されているのは、津軽海峡とその周辺の、気象観測データだ。緯度、経度、時刻、観測結果の数字だけが並んでいる。
きっと不思議そうに、首を傾げているであろう参河の顔は、見えない。まぁ、パソコンで会議なんて、そんなものだ。
随分昔から、東京を中心に『雨にあたると溶ける』事象が発生している。
それが『青森県でも最近発生している』との報告があり、気象省から派遣された弓原が、観測を行っている。
その結果なのだが、試薬に雨を沁み込ませた結果は、
『あんま溶けいないけど、何?』だったのだ。
ホント、何? である。
「まだ観測、続けます?」
「あぁ、頼むよ」
きっと惰性で頼んでいると思う。弓原は露骨に渋い顔をしたのだが、その顔は東京に届いていない。
「そうですかぁ」
だから、ちょっと嫌そうな感じを増して、弱音を吐いてみる。
「何? 潜水艦生活は、嫌な感じ?」
待ってました! その言葉! 弓原は前のめりになった。
「そりゃぁ、つまらないですヨぉ。何にもないんですよ?」
窓もなければテレビもない。私物の通信機器とか、DVDプレイヤーとか、そんな物は持ち込み禁止。
得意のけん玉さえも、ダメだった。一体、何が良いんだか。
この際、語尾を強めに言って、『東京に帰りたい』をアピールだ。
「まっ、仕事だから」
バッサリ。参河は厳しかった。
弓原はがっくりと、椅子の背もたれに寄り掛かる。
「潜水艦は、ごはん、美味しいんでしょ?」
食いしん坊の参河から、慰めのお言葉。
ハイハイ。有難いですね。弓原は頷く。
「そうですね。凄く美味しいですよぉ」
美味しいのは事実だが、棒読みで答える。
「そうなんだぁ。良かったじゃない!」
あと一カ月ぐらい、行って来い! そんな言い方だ。
「でも、士官の食事は、有料なんですよぉ」
これも棒読みで答える。そして両手の平を上にする。
「でも食費、給料に上乗せされてるでしょー?」
まぁ、それはそうなんですけどぉ。
でもそんな制度、知らなかったですよぉ。お小遣いが増えると思っていただけに、残念だ。
「参河さん代わりましょうか? 海軍カレー美味しいですよぉ?」
弓原の問いかけに、参河は考えているのだろうか。
数字が並ぶ画面の向こうから、参河の「おー」という小さい声だけが聞こえて来たのだが、その後しばし無言だ。
「いや、良いや。海軍カレーなら東京でも食べられるし!」
断られた。ちきしょう! 弓原は焦って考える。
「いやいや。イー407カレーは、東京のとは違いますよ!」
嘘だ。東京の海軍カレーなんて、食べたことはない。
「同じだよ、同じぃ! じゃぁ、観測よろしくねぇ」
速攻でバレたのだろうか。通信がブチッと切れた。無常だ。
「参河さん、参河さーん!」
弓原の声だけが、研究室にこだましていた。