深海のスナイパー(十二)
秘密裏にウラジオストックを出港した、帝政ロシア海軍のキロ型潜水艦。今、機関を停止し、津軽海峡の西、大陸棚の縁で、外が静かになるのを待っている。
秘密裏に出向したはずなのに、日本の対潜哨戒機に追い回され、駆逐艦に追い回され、何度も死に掛けた。
それが今、外は静かになりつつある。
それもこれも、潜水したまま『日本の領海に入ったから』なのだが、本当にいい加減勘弁して欲しい。
こちらは津軽海峡を、『無害航行権』を宣言しておいた海洋調査船が、無情にも行方不明となった原因を調査しに、やってきただけなのだから。
「やっぱり、無理だったんでしょうか」
と、副長が艦長にロシア語で聞く。
以下、艦内の会話はロシア語とする。
「だろうな。もう海洋調査船も、拿捕されたか、沈められたか」
そう言いながら、艦長は額の汗を拭いた。
艦内は蒸して暑くなっているが、流れ出る汗は、冷や汗ばかりだ。
「しかし、ウラジオを出てから、ずっとこれですからね。日本の対潜哨戒は、本当にうざい」
副長は上を見る。まだ、ブンブン飛んでいるのだろうか。
「ウラジオからずっと沿岸沿いを北上して、樺太の北を回らないと太平洋に出られないとは。随分と押し込まれたものよ」
トホホ顔で艦長が話す。
「日本海は『我々の庭』だった、はずなんですけどねぇ」
「あぁ。きっとこの辺にも、日本の古い軍艦が沈んでいるかもな」
「あの頃の栄光よ、今一度」
そう言って、二人がしばし夢の世界に行くのも、気持ちは判る。
日本海海戦で帝政ロシアが、完膚なきまでに日本海軍を打ち破った後、ロシア皇帝がウラジオストックを訪れて、太平洋艦隊と、黒海艦隊の連合艦隊を、褒めたたえた。
しかしその間に『ロシア革命』が起き、帝政ロシアは東西両方で戦線を維持しなければならなかった。
結局、ウラル山脈の西が『ソビエト連邦』となり、東が『帝政ロシア』となる。
ロシア皇帝は、モスクワはおろか、サンクト・ペテルブルグにも、帰れなくなってしまったのだ。
その後バルチック艦隊は、スターリンによって、解体されてしまい、国際連盟の『常任理事国』の座も、ソビエト連邦に奪われ、帝政ロシアは国際連盟を、実質上離脱した。
帝政ロシアは『刃向かう者無き孤高の大国』として、世界に君臨している。
「日本は飛行機も軍艦もバンバン作って、いつの間にかこの有様よ」
艦長は学んで来た歴史を振り返り、両手の平を上にして首を曲げる。オマケに口は『への字』ときたものだ。ロシア人だけど。
「艦長、水爆攻撃でも沈まなかった戦艦があるって、本当ですか?」
副長が疑いの目で艦長に聞く。すると艦長は、益々元気がなくなって答える。
「あぁ。本当だ。しかも二発目で、やっと沈んだんだ」
そう言って『ブイサイン』、いや、只の『弐』を表した。
「本当だったんですか! じゃぁ、魚雷なんか、何発ブチ込んだって、日本の戦艦が沈む訳、ないじゃないですかぁ」
副長が魚雷の残数を確認し、呆れてうな垂れた。
「潜水艦も、でっかいのがウロウロしているらしいしな」
そう言って、艦長は帽子でパタパタした。
「では、どうして『津軽海峡』に、拘るんですか?」
副長は艦長に聞いた。艦長は溜息をつく。
「冬の流氷が増えてくる時期にな、機雷を海流に乗せて流してくるんだよ。だから宗谷海峡はな、機雷だらけで通れない」
「なるほど」
「それでな、アラスカから原油を運ばないといけないのだが、それは『津軽海峡』を通るのだよ」
そう言って、艦長は口をへの字に曲げた。それを見て、副長も口をへの字に曲げる。
二人が口をへの字にしたのは、理由を知っているからだ。
原油を満載したタンカーは、津軽海峡で『攻撃されない』。
理由は簡単。
撃沈すると、原油が日本近海に広がって、後始末が大変だからだ。




