陸軍東部第三十三部隊(十四)
今日は銀座のバーに、酔いに来たのではない。
危険なグラスには、口を付けるだけ。それでも、このグラスの危険度が『マックス』なのは判る。
唇に触れた筈のスピリタスが、あっと言う間に乾いてゆく。
モーツァルトに乾杯することが、こんなにスリリングなこととは、夢にも思わなかった。
「自己紹介が遅れましたね」
「いいえ。気にしないで下さい」
男の提案に、彼は乗らなかった。まるで、『自己紹介など不要』そう言っているように見える。
流石だ。この場が何をする場なのか、彼は判っている。
「じゃぁ、呼び易いように『大佐』とだけ」
後から来た男が、親指で自分を指さした。
すると彼は、にっこり笑って頷き、大佐を見た。
しかし、彼の自己紹介は始まらない。
直ぐにグラスを持って前を向き、一口飲む。と、見せかけて、コップの淵に唇を付けるだけ。
「聞いてますよ。それは」
そう呟いて、横目にこちらを見た。そして、また笑う。
大佐は誤魔化すように右手を握って口にあて、コホンと一つ咳払いをする。
そうだ。彼は、早く用件を済ませたいのだろう。それに、名前何て都合の良い『記号』。何の意味もない。そう思っているのだろう。
彼の目が、そう言っている。
判った。『好きに呼べ』と、そういうことなんだろう。
大佐は一瞬で判断した。彼に、短く返す。
「そうか。じゃぁ、今日は『ホーク』だ」
適当だ。
ちょっと失礼かもしれないが、グラスを持った右手の人差し指で、彼を指さす。
すると彼は、再び口に運んでいたグラスを、一瞬止めた。そしてそれを、ゆっくりとカウンターに置く。
衝撃で氷がグラスに当たって、小さく音がした。
何? まるで、動揺を隠せない様子だ。
「その名前は、久しぶりですね」
ホークが大きく息を吐き、体を起こす。
まるで『前の仕事』を、思い出したかのような、鋭い目。明らかに表情が変わった。
モーツァルトに捧げた時間は『終わり』ということか。OK。
「じゃぁ、ホーク、仕事の話に入ろうか」
大佐は、そう言って真顔になる。
しかしホークは、表情を穏やかに変えた。目をゆっくりと瞑りながら、「チッチッチッ」と、人差し指を軽く左右に揺らす。
そして、カウンターの奥にいるバーテンダーを、目で引き寄せた。
直ぐに一礼して、バーテンダーが近づいて来る。
「何にしましょうか?」
そう言いながらも、並んで座る二人の表情とグラスを見て、バーテンダーは考える。
「足してくれ」
いや、バーテンダーにも『考える時間』を、ホークは与えなかったのだ。大佐には判る。バーテンダーも困っているだろう。
「こ、これにですか?」
やはり。そのようだ。困惑している。
「あぁ」
しかし、ホークに迷いはない。上目遣いでバーテンダーを眺める余裕。流石だ。
「氷を、ですか?」
それを聞いて大佐は思う。「違うだろうな」と。
冷や汗を拭きながら、救いを求めるバーテンダーのチラ見。
大佐は、目をゆっくりと瞑りながら、首を横に振った。
どうやら今夜の仕事は、思ったより『危険』なものに、なりそうだ。