陸軍東部第三十三部隊(十三)
銀座のバーと言えば、紳士淑女の社交の場だ。
薄暗い照明の下、怪しく光るグラスを傾け、思い思いに、重い想いを馳せる。
そんなとき、男は、眉間に少ししわが寄っていた方が、様になる。
彼は緊張していた。
まず第一に、下戸なのに、銀座のバーに来てしまったことだ。
どうしよう。
そして第二は、メニューに値段が書かれていない店に、来てしまったことだ。どうしよう。どうしよう。
そして第三は。
「お待たせして、悪かったね」
「いえ。私も、まだ一杯目なので。全然」
初めての男に、会わなければいけないことだ。誰だ? こいつ。
先に来ていた彼は、減っていないグラスを、後から来た男に見せると、笑った。
それは、お世辞にも本心からの笑いと言うより、『苦笑い』であると、後からきた男は思ったが、それは気にしない。
後から来た男は、指定された『ピアノの発表会』には出席できなかったが、その後指定された『二次会』には、なんとか間に合った。
そこには、指定された『彼』が、待っていた。それで充分だ。
これなら、スケジュールの再調整は、しなくて良いだろう。
「彼と同じもの、頂こうか」
そう言って、バーテンダーに注文すると、少し目を大きくして頷いた。男はその目を見て驚く。
ここのバーテンダーは、『関係者』なのだ。そんなことで、動揺を表情に出す男ではない。
つまりそれは、一種の『サイン』を表している。それは何か。男は考え始める。
後から来た男は、先に来た彼に話しかける。
「今日は、何を演奏したんですか?」
すると、話しかけられた彼は、少し座り直し、こちらを向いた。そして、不意に右手を持ちあげた。
「モーツァルトの『レクイエム』を、ちょっとだけ」
右手で『少し』を表現する。ただ、それだけだった。
危ない。職業柄、うっかり『右手』に反応する所だったが、それは何とか押さえた。
それにしても、なんと言うか、渋い選曲だ。
やはり男は、少し身構える。こいつは思ったより出来る奴だ。
「お嬢さんも、モーツァルトでしたね」
話題が『ピアノ関係』になって少し落ち着いたのか、彼が微笑む。男は少し笑って、手を横に振った。
「いや、うちの子は、まだ『小さい』からね」
何人も参加していた中で『関係者を捕捉』していたのだろうか。いや、それは考えられない。
しかし彼は、今持ち上げた右手でグラスに触れる。そして、真顔になって、正面を見る。
「いやいや、『トルコ行進曲』とっても『お上手』でした」
そんなの『朝飯前』とでも言いたげに、そのままゆっくりとまばたきした。
本当に、把握してたようだ。やはり侮れぬ。イーグルは『使える男』を、よこしてきたようだ。
「ありがとう。帰ったら、褒めている人がいたって、伝えておくよ」
そう言うと、彼は恐縮して、いや、本当に恐縮だろうか。グラスを持ち、少し会釈をしただけだ。
そこへタイミング良く、『彼と同じグラス』を持ったバーテンがやってきて、男の前に置く。
バーテンは男の目を見て、確認するように言う。
「スピリタス・ロックです」
阿保か。死ぬぞ?
しかし、男は平静を装って、バーテンダーに会釈をして、そのグラスを手にした。そして、目の前に持って来る。
早速、アルコールが蒸発しているのか、グラス上の空気が渦巻いているのが判る。
まるで、今の世の中を表しているかのようだ。
いや、まるで同じだ。こいつに火を点けたら、それは良く燃えるだろう。いや、確実に燃える。
なんせスピリタスは、アルコール度数が『九十六度』なのだから。この店のメニューにもない危険なグラスを、彼は何故選択したのか。せめて梅酒とか、そういうので割るだろう?
「誰に乾杯しますか?」
彼が余裕で聞いてきた。まるで、こちらに『考える時間』を、与えないかのような、時間の使い方だ。
いやいや、ちょっと待て。
今『乾杯』って。ちょっとそれ、どう意味か知ってんのか?
杯を乾くまで飲み干し、それをお互いに確認し合う儀式だぞ?
これをか? 一気に逝こうぜ? なのか?
馬鹿かっ、本当に、逝ってしまうわっ。
しかし、彼は返事を待ったまま、黙って少し、頭を傾けるだけ。
「モーツァルトに!」
そう言って、男はグラスを掲げた。そのまま彼の目を見る。
彼はそれを聞くと『名案』とばかりに頷いた。躊躇なく、同じ高さまで、グラスを掲げる。
ポーカーなら『コール』だ。
「モーツァルトに!」
彼は高々に『コール』した。
二人はグラスを軽く『カチン』と当てると、笑顔のまま見つめ合い、手にしたグラスを口に運んだ。