01-15-06 秦九 昭襄王
武王が死ぬと、弟の「昭襄王」嬴稷が立つ。この当時魏より「范雎」がやってきた。昭襄王は范雎と会見するなり、たちまち大臣に据えた。その范雎が昭襄王に授けたのが「遠交近攻」の策である。
この頃秦の政治を取り仕切っていたのは「魏冉」であったが、范雎は彼を追い落とし、自らが代わって宰相の地位に就く。
昭襄王は范雎の策にしたがって韓、魏、趙に派兵。斬った首は数万にも及んだ。これを大いに恐れたのが周の末代王、赧王である。諸侯に呼びかけ秦討伐の軍を立ち上げた。しかしこの行動によってむしろ秦よりの攻撃を受けた。赧王は咸陽に引っ立てられ、昭襄王に罪を詫び、周の保有地三十六郡を献上した。こうして周は滅びた。
さて范雎であるが、長平で四十万の趙人を埋めて殺した白起と衝突していた。そこで白起を一兵卒の身に落とし、更に自殺のための剣を与えた。「杜郵」にて白起は自刃。この事態を受け、昭襄王が嘆息する。
「良将もおらぬのに、外には強敵が多いな」
この言葉に范雎は危惧を覚えた。すると「蔡澤」が范雎に言う。
「季節は移ろい変わるもの。功為し遂げたものは去っておかれるが良い」
こうして范雎は病と称して引退。蔡澤がその後任となった。