↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
訳だけ! 十八史略+蒙求  作者: ヘツポツ斎
01-10 趙

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
60/600

01-10-02 趙五 先祖 簡子

 文子《ぶんし》が死ぬと、「景叔《けいしゅく》」を経て「簡子《かんし》」趙鞅《ちょうおう》の代に。家臣によく諫言を為す「周舍《しゅうしゃ》」がいたのだが、彼が死ぬと、政務のたびに簡子は直言でこちらを諫める者がいなくなってしまった、と洩らした。

 簡子にはふたりの子がいた。「趙伯魯《ちょうはくろ》」「趙無恤《ちょうむじゅつ》」である。ふたりに訓戒を記した木簡を授け、三年後に訓戒について問う。すると伯魯は訓戒をまるで覚えないどころかなくしたといい、無恤は訓戒を暗記していた上、常に懐に収めていた。このことから趙無恤を後継者として定めた。


 趙の封地の内、「晉陽《しんよう》」は国土防衛の要地である。そこを「尹鐸《いんたく》」に守らせることになった。尹鐸は統治方針を使役とするか保障とするかを問う。簡子は保障にせよと答えた。すると尹鐸は租税を減じ、晋陽の民より讃えられるようになった。なので簡子は趙無恤に、いざとなったら晋陽に頼るように、と言い残した。


 とまぁ仁者のごとく書かれてはいるのだが、「孔子《こうし》下」では「賢人を殺した」として孔子から失望されているし、また「三晋分立」で語られる范《はん》・中行《ちゅうぎょう》二氏の滅亡も簡子の代のことである。だいぶ他国での書かれ方と温度差が激しい。



蒙求《もうぎゅう》:

魏舒堂堂《ぎじょどうどう》 周舍諤諤《しゅうしゃがくがく》

 魏舒は魏末晋初を生き抜いた大臣。素朴な性格をしていたが、よく人材を推挙した。不才を理由に辞職を申し出ても、司馬昭より「そなたのその堂々たる振る舞い、まさに人々の領袖たるに相応しい」と賞賛を受けている。

 秦に仕えた趙簡子の配下のひとり、それが周舍だ。彼は直言を好み、それによって簡子は常に彼を煙たがっていた。しかしその死後には「彼の諤諤たる直言がなくなり、配下は唯々諾々とするのみだ。このままでは危うい」と語ったという。

 人主に仕える有能な配下、それぞれのありよう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。