01-08-03 斉五 景公・晏嬰
桓公より八代下り、前 547 年に「景公」が就任。景公の補佐には「晏子」がつく。節約を旨とし、みずからは一つの狐革の衣を三十年身につけ続けた。祭で捧げる豚の肩肉もほんのひとかけらほど、それでいて晏嬰の施しを受けて生活出来ているものが七十世帯ほどもあった。
晏子が外出しようとしたとき、その場車を引く御者は四頭の馬を率い、いかにも誇らしげであった。それを影で見た御者の妻は言う。「ご主人様があれだけ謙虚なのに、その召使いのあなたが威張り散らすなんて! もうあなたとは離縁します」
それから御者はすっかり謙虚になった。突然態度の変わった御者を不思議に思い、晏嬰がそのわけを尋ねる。御者が正直にあらましを話すと、素直に身振りを改められる御者に感心し、幹部に推挙した。
景公が晏子を晋に使わせた。そこで「叔向」と密かにささやき合う。斉は将来陳から来た男に乗っ取られるだろう、と。
果たして景公の五代のち「康公」の代、前 404 年に陳完の子孫、「田和」が周の安王より侯に任ぜられた。康公は追放の上、殺害。こうして姜氏としての斉は滅んだ。
蒙求:
范冉生塵 晏嬰脫粟
范冉は後漢の人。才人であったが俗世とは一線を画した恬淡とした生活を送っていた。そのため米炊き用の釜に塵がたまったりさえすることもあったという。
そして晏嬰は脫粟、要は玄米をいただくぐらいで、食を贅沢にしようとはしなかった。
食に対して恬淡なふたり。
晏御揚揚 五鹿嶽嶽
晏嬰の御者がイキった話、と来れば、対応する五鹿充宗もやっぱりその手のエピソード。前漢元帝時代の易学者で弁舌バリバリであったのだが、朱雲という学者にベキベキにへし折られまくった。
史書上でそれほど大きな作用をもたらしたわけでもない二人、ともに伸びた鼻をへし折られた感じですが、片方は改心、片方は挫折と、真逆なところもありますね。
齊景駟千 何曾食萬
ここに出てくる景公は、世説新語で「景公は四頭引きの馬車千両を持っていたが、それを讃えられていたかね?」と無益な贅沢を誇った人物として書かれる。つまり晏嬰が晋でこっそり洩らしたのは、こういった景公の性状を抑えきれなかったことにも絡んでいるっぽい。
対する何曾は西晋立ち上げの頃に丞相となった。つまり司馬炎の参謀みたいな位置づけ。厳格な儒者ではあるが、その贅沢ぶりは度を超していたんだとか。
贅沢者繋がり、こうして並べられると「将来の国運衰亡にも繋がったのだ」まで言いたくなっていそうではある。




