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訳だけ! 十八史略+蒙求  作者: ヘツポツ斎
01-03 西周

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01-03-05 周 成王・周公・召公

 武王《ぶおう》が死ぬと子の誦《よう》が王となった。「成王《せいおう》」だ。ただ、いまだ幼かったため武王の弟である「周公旦《しゅうこうたん》」がサポートをした。

 これに対し、周公旦の弟である「管叔《かんしゅく》」「蔡叔《さいしゅく》」がデマを流す。兄は幼子に乗じて好き放題する気だ、と。そして「武庚《ぶこう》」とともに乱を起こした。

 なお武庚とは紂王《ちゅうおう》の息子だ。早い段階で周《しゅう》に降っていたため、殷《いん》の旧領である東方を与えられていた。

 東方には未だ殷の政治を懐かしむ者がいたため、彼らの監視を三人に任せていた。その三人によって起こされた乱を、周公旦は自ら出征、鎮圧する。

 やがて成王が成人すると、周公旦は全権を成王に返却した。


 武王は「鎬京《こうきょう》」と「洛邑《らくゆう》」という二つの都を造営しようと考えていた。しかし存命中には鎬京の造営までしか果たせなかった。父の意思を叶えるため、自らは側近である「召公奭《しょうこうせき》」とともに鎬京に留まり、周公旦に洛邑城の建築を任じた。こうして出来上がった二都は鎬京が西都《せいと》、洛邑が東都《とうと》と呼ばれた。なお後の長安《ちょうあん》、洛陽《らくよう》である。

 王は基本的に西都にいるが、諸侯との謁見などは東都にて行う。そんな成王の政について、「陝《きょう》」より西を召公奭が、東を周公旦が補佐することになった。



蒙求《もうぎゅう》:

周公握髮《しゅうこうあくはつ》 蔡邕倒屣《さいようとうし》

『韓詩外伝』に、周公旦は来客があれば、例え洗髪中でも髪を握ったまま応対に出たと書かれている。それだけ人材を逃したくなかったのだ、と。

 一方の蔡邕《さいよう》は後漢《ごかん》末の文人トップオブトップ。そんな蔡邕がたくさんの人の訪問をさばく中、幼少ながらすでに抜きん出た文才を放っていた「王粲《おうさん》」の訪問に気付き、下駄を踏み外しながらも駆け寄り、その才を激賞した、と言うもの。王粲は後に曹操《そうそう》曹丕《そうひ》の元で建安《けんあん》文学を花開かせる「建安七子」の一人として讃えられる。

 得難い人材のためになりふり構わぬ二人、という感じですね。



詩経:

大雅 假樂(成王)

https://kakuyomu.jp/works/1177354054918856069/episodes/16816452221283530413

豳風 鴟鴞(周公旦)

https://kakuyomu.jp/works/1177354054918856069/episodes/1177354055605896663

召南 甘棠(邵公奭)

https://kakuyomu.jp/works/1177354054918856069/episodes/1177354054921075881

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