01-02-05 殷 歴代王
湯が死ぬと「太丁」が立ったが、すぐ死亡。次子の「外丙」二年で死に、更にその弟である「仲壬」が立ったが四年で死亡。そこで太丁の子である「太甲」が王となったが、これが不肖の王だった。なので伊尹は太甲を桐宮に追放、三年間蟄居させる。反省した太甲は王としての務めを果たし、諸侯も帰服した。
その後「沃丁」「太庚」「小甲」「雍己」を経て「太戊」が立つ。
亳の地で、クワとコウゾが一本の木に生えると言う怪異が発生。太戊はこれを恐れたが、臣下に「良い政さえすれば良い」と言われたので善政に励んだ。その木は二日で枯れたという。太戊の代で殷が再び栄えたので、死後「中宗」と諡された。
そこから「仲丁」「外壬」「河亶甲」と代が移り、水害を避けるため相に遷都された。更に「祖乙」の代で耿に、更に圮にと遷都が続く。
「祖辛」「沃甲」「祖丁」「南庚」「陽甲」「盤庚」と代が移ると、亳に都が戻された。その後「小辛」「小乙」、そして「武丁」の代に至る。
武丁は夢の中で良い補佐の存在を知る。彼の名は「說」。かれは「傅巖」という地で罪人として働いていた。赦免してやり、傅の姓を与えて傅說と名乗らせ、自らの補佐につけた。武丁が湯王に対する祭礼をなすと雉が飛んできて祭器に止まり、高らかに鳴く。武丁は災いを恐れ善政に精を出した。武丁の代でも殷が隆盛したので、「高宗」と諡されている。
その後王は「祖庚」「祖甲」「廩辛」「庚丁」「武乙」と移る。ここで武乙が無法の王であり、天を侮辱するような行為をしばしば働いた。ある日猟に出ると、急な落雷に遭い、死んだ。
武乙が死ぬと「太丁」を経て帝乙、つまり「紂」が即位する。
蒙求:
「伊尹負鼎 甯戚叩角」
鼎は三本足の祭器であり、国の象徴として比喩されることが多い。つまり国を保つため、あえて暴挙に出てでも国運を背負ったとなる。
一方の寧戚は呂氏春秋の引く三斉略記《さんせいりゃく記》より。春秋五覇の筆頭として知られる斉の桓公がお忍びで夜のお散歩をしていた。すると寧戚が、飼っている牛の角をポコスカ叩きながら、大声で桓公の治世を批判する歌を歌っていたという。桓公が話しかけてみると知者だったため、重臣として召し抱えた。
批判なんぞをものともせず、正しい政のために邁進する二人ですな。
詩経:
商頌 玄鳥(武丁)
https://kakuyomu.jp/works/1177354054918856069/episodes/16816700427595228138
商頌 殷武(武丁)
https://kakuyomu.jp/works/1177354054918856069/episodes/16816700427676053277




