↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
訳だけ! 十八史略+蒙求  作者: ヘツポツ斎
02-04 文景の治・呉楚七国の乱

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
151/600

02-04-03 漢二 文帝劉恒 下

 前 166 年、食料庫を司る淳于意《じゅんうい》が処刑相当の罪を犯した。これに対し娘の淳于緹縈《じゅんうていえい》が上書して言う。

「死者が復活することはありません。斬られた身体が戻ることもありません。ならばどうか、この私の身を奴婢として取り上げ、父の罪をあがなわせてくださいませ」

 その訴え出に文帝は感じ入り、以後肉刑、すなわち身体欠損刑は撤廃された。

 この年もやはり年貢が半減された。


 前 164 年、新垣《しんえん》と言う男が取り立てられ、文帝にあることないことをささやき改元させたが、翌年には身分偽装が露見、誅殺された。


 前 158 年、匈奴《きょうど》が上郡《じょうぐん》や雲中《うんちゅう》に攻め入ってきた。文帝は周勃《しゅうぼつ》の息子「周亜夫《しゅうあふ》」に細柳《さいりゅう》を、「劉礼《りゅうれい》」に霸上を、「徐厲《じょれい》」に棘門《きょくもん》を守らせた。自らも軍の慰問のため霸上や棘門に出向いた。


 前 157 年、文帝が死亡した。

 在位の間宮殿や庭園、それどころか馬車や衣服に至るまで新しく作ることもなかった。あるとき宮殿にバルコニーを新設したいという話が出たので工匠に見積もりを取らせたところ、百金がかると算出された。それを聞き文帝は設置を取りやめとしている。「中流人の家十軒分の費用ではないか! そんな財産を傾けて設けられるものか」とのことである。

 寵愛する慎《しん》夫人とともに素朴な衣服を身にまとい、質朴さの率先垂範をなした。

 吳《ご》王「劉濞《りゅうび》」(のちの呉楚《ごそ》七国の乱の首謀者)が体調不良と偽って参内しなくなったときにはあえて不問とし、肘掛けを送った。

「張武《ちょうぶ》」が賄賂を受け取ったとき、文帝はあえて張武に褒美を下賜したため、自らの貪欲な行為に恥じ入り、行いを改めた。

 文帝の意図は民の徳化であった。そのため当時の公卿や大夫は風流篤厚、人の過ちをあげつらうのを恥とした。上流から下流にまで文帝の意図は行き渡り、このため国内は大いに安定した。人々には家が行き渡り、不自由なく暮らしていた。これだけの平和な時代は後世にもあり得なかったほどである。霸陵《はりょう》に葬られ、太子が卽位した。のちの「景帝《けいてい》」である。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。