02-02-05 漢一 楚漢戦争 5
前205年。
劉邦が洛陽に到着すると、洛陽のとある老人が劉邦を引き留め、言う。
「徳に従う者は栄え、逆らうものは滅ぶのが世の常。名目なきところに兵は集いませぬ、ならばここで項羽が逆賊であることを明確にするのがよろしいでしょう。いま項羽は主であったはずの義帝を放逐、殺害しております。これは天下の逆賊であると示すに相応しき所業。劉邦様におかれては義帝のための喪を発せられ、諸侯に呼びかけられるのが良いでしょう」
劉邦はこの進言にしたがった。更に言う。
「義帝は天下の諸侯が天子として推戴したお方。そのようなお方を項羽は殺害した。諸侯におかれては、願わくば我らとともに逆賊討伐に決起なされんことを」
こうして五人の諸侯の兵をも擁した総勢五十六万が彭城にまで進撃。その地の財宝や美女を収奪し、盛大に宴会を開いた。このとき項羽は彭城の北、斉を攻めていたのだが、すぐさま三万の軍勢でとって返し、劉邦軍を強襲。睢水で漢軍は大いに打ち破られ、死者は二十万人にのぼり、死体で川がせき止められた。このとき劉邦は項羽軍に三重の包囲を受けたのだが、にわかに大風が起きて砂塵を巻き上げた。これに乗じて劉邦はわずか数十騎にて脱出。劉邦の父「太公」と妻の呂雉は別口で逃れようとしたものの楚軍に捕まり、捕虜となった。
劉邦は滎陽に落ち延びると、敗残軍を結集させる。また蕭何が関中の老人や子どもを徴収して送り込んだため、漢軍の勢いはまたすぐさま勢いを取り戻す。なお蕭何は他にも漢の先祖代々の霊廟を立て、県邑制度を施行するなどの政令を敷き、更に戸籍管理などにより租税を徴収、集めた軍資を常に前線に送り続けた。このため漢軍が軍資に困ることはなかった。
魏の「魏豹」が謀反を起こすと、韓信が討伐に出る。魏豹は迎撃の軍を出したものの、韓信は迎撃軍より身を隠し、別口のルートから魏の都を直接攻撃。魏豹を捕らえた。
ここで韓信は劉邦に更に三万の兵をよこすよう要請。燕、趙、斉を征伐したのちに南下し楚の補給路を断ち、その後に劉邦に合流したい、と語る。そこで劉邦は副官として「張耳」をつけ、韓信の要請を受諾した。そして韓信は趙、燕を下し、自身は趙に駐屯した。
この頃「黥布」が楚から漢に寝返った。劉邦の元に挨拶に行くと、劉邦は例によって足を洗っているところだった。黥布は後悔し、怒り、自殺すら考えた。しかしあてがわれた館に赴いてみれば、すべての待遇が劉邦の家と同じものであった。これは望外の待遇であると黥布は喜んだ。




