20 風鏡1
軽い瞬きを二、三度すると、光の帯は緩やかに解けて私を放した。
両手を見る。
焼けただれているはずのそれは、以前のように白く傷ひとつない。
そのかわり、結界に突っ込んだ手の間から、ひんやりとした冷気がシューッと小さな音を立てて噴き出している。
「精霊の……結界?」
明らかに違う強さ。ゾクゾクするほど力を感じる。
(風はそなたを傷つけることを許さない)
噴き出す風が唸りをあげる。
これは怒りだ。
手のひらを包んでいた風は、腕をつたい、肩から私の身体に絡みつく。
さながら鎧のように。
肌に触れる風がピリピリしている。
まるで静電気のように。
そこから私の中に感情が流れ込んでくる。
許さない
聖域を奪うもの
約束の地に踏み込むもの
我らの大地を犯すもの
光を奪いし邪悪なる下僕達
許さない
許さない!
痛いほどの叫びだ。
そう、今は聞こえる。
こんなに簡単なことだった。
ただ精霊の存在を信じればいい。
彼等に意思があることを認めればよかった。
「ありがとう。私に力をかしてね」
ふわん、とやわらかな空気が私を包む。
如何なる場所にいても風の加護を得る者、それが風の乙女。
私はそれに応えないといけない。
幸運、と呼べるかもしれない。
私が望んでいたことを、私がやれるのだから。
この好機をもらったのだから。
「ルーラ………」
いつのまにか、レンディルム陛下が私を見ていた。信じられないものを見るように。
数歩近づいて立ち止まる。
「翼が」
彼の声に背中をみると、いつのまにか翼が出ていた。
黒い竜の翼、だけど今は風の精霊の持つ白い光が羽毛のように広がって、まるで天使の翼のようだ。
「風の乙女よ」
陛下がひざまづく。
「無事でよかった」
絞り出すような安堵の声。
私はちょっと微笑み返す。
「まだ、これからだよ」
ぐっと手に力を込める。
(意志を込めよ)
脳裏に蘇る声に従い、意識を集中する。
(結界は思考の実在化。より合わさった意識の糸。それを解く)
そう、これは悪意と害意の組糸だ。雷撃は行く手を阻む意志の力。
目を閉じると苦しいまでの圧迫感が私を襲う。
風がそれを押し返すように勢いを増す。
負けない。
私はここを通るのだ。
神殿にたどり着くために。
風を呼び戻す為に。
これ以上、この国を傷つけさせない。
「邪魔は許さない!」
まるで削岩機で削るような音と振動。でもそれは魔物の必死の抵抗に思えた。
ほんの少し、心に余裕が生まれる。
いくつもの命を奪ったであろう、このおぞましき障壁。
恐怖の幻覚で騙して生命を止める、なんて卑怯で愚かしいのだろう。
私にはもう通用しない。
糸が解けるように視界が滲み、結界が緩んでゆく。
キシキシと最後の悲鳴をあげている。
(砕く!)
バシュッ
激しい空気の破裂音とともに、ガラスが割れるが如く結界が砕け散った。
「解けた!」
神殿を覆い尽くす大きな結界は、その一瞬ですべて空に向かって破片をばら撒いた。
やった!出来た。
私は感激のあまり、両手を合わせて飛び上がった。
そして役目を終えたように背中の翼も消える。
オオーッ
背後で大きな歓声が上がる。
振り返ると、丘の麓にはいつのまにかたくさんの人が集まってきていた。
みんなはそれぞれ手を取り合い、喜び合っている。感極まって泣き出す人も見えた。
約束を果たせた。期待に応えることができた。
何より、この国を救える。それが嬉しかった。
「ルーラ」
後ろにいる陛下が両手を広げる。
私は彼に走り寄ろうと駆け出した。
だけど、突然、私を包んでいた風の結界がゴオッと勢いを増した。
私の脚が地面から浮き上がり、外が見えないほど風が膨れ上がる。
「どうしたの?」
精霊達が警戒の唸りをあげている。
「どうしたの?答えて。一体何があるの?」
ピィーン
耳鳴りが痛いほど鼓膜を震わせる。
(気をつけて………目を離さないで)
聞こえた。とても切羽詰まった、危険を知らせる声。
何から?何に気をつけるの?
(出てくる………神殿………)
「神殿?」
一体何が出てくるというのだろう。
ゆっくりと神殿を振り返った私は、全身に鳥肌がたつのを感じた。
霧散した結界の中から、黒い塊が溢れてくる。
これは、何?
「さがれ、ルーラ!」
陛下が私の手を引っ張って背に庇う。
「レン………っ」
ゾロリ、音を立てそうな質感で、黒い霧が這い出す。
それは鳥肌がたつほど気色の悪い光景だった。
半透明の霧の塊は、アメーバのように伸縮を繰り返しながら、その触手を広げてゆく。
触手に触れられた大地は、たちまち緑を失い茶色く変じた。
ゆるゆると蠢くその姿は、ちょうどイソギンチャクに似ている。
いくつもの触手を空に向かって伸ばし、何かを探っているようにも見えた。
中心部は暗く淀み、ドクンドクンと脈打っている。
瘴気が凝り固まってできた魔物、こいつの正体はそんなところだろう。
木に絡まった触手がその幹に張り付いた。ズズっと木の生気を吸ってわずかに太くなる。
触手が離れた時、木は茶色く枯れていた。
その触手がこちらに気づいたように動きを止める。
その後ろから別の触手が現れた。
私達を捉えようと伸びたそれは、風の結界に阻まれてちぎり消される。
すると、その霧はふいっと進路を変えて、丘の麓に進み始めた。
「だめっ!そっちにはみんなが」
陛下がチッと舌打ちして、その後ろを追って走り出す。
「精霊、あれを吹き飛ばして!」
空に向かって叫んだ。
風は私の身体を離れて、丘の斜面を滑り降りる霧を吹き上げる。霧はその速度を止め、風を取り込んで渦巻く。
だめだ。かき回すだけで消えない。
低い、獣のような鳴き声をあげ、それは再びみんなに向かって進み出す。
「逃げろ!」
さっきの隙に霧を追い抜いていた陛下が、下にいるみんなに向かって叫んだ。
「早く!」
その声に茫然と立ちすくんでいた人々は我にかえって、悲鳴をあげながら逃げ始めた。
けれど、霧はもうすぐ後ろにまで迫っていた。
その高さは人の背丈の三倍以上。
津波のように彼等を飲み込もうと、さらに上に伸び上がる。
「みんなを守って!」
お願い助けて。あの魔物を止めて!
私は声の限り叫び、精霊達に祈った。




